リチャード・アーミテージと沖縄<上>

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ミスター・フテンマ

 

誰もが初対面でその迫力に圧倒されるという。一点のくもりもなく剃り上げた頭。ほほえんでいても鋭い眼光。そして、日本人の平均的成人男性の太ももほどもある腕を差し伸べての握手。その二の腕は、旅行先でもホテル内のジムでベンチプレスを欠かさない日課の賜物だそうだ。

リチャード・アーミテージ。いわずとしれたアメリカの日本専門家であり政治家だ。ベトナム戦争への従軍経験を持ち、レーガン政権と続くブッシュ(父)政権では国防次官補、ブッシュ(子)政権では国務副長官を務めた。自身の政策コンサルティング会社を運営する彼が、超党派の専門家を結集して書いた一連の対日政策提言は、アーミテージ・レポートと呼ばれ、日本政府にも強い影響を与えた。

アーミテージは、その経歴と人脈から、親日派というよりも親日「政府」派のイメージが強いが、存命の米政府閣僚経験者の中では、彼が最も長く沖縄の米軍基地問題に関わった人物であることは、あまり知られていない。

クリントン政権の国防長官だったウィリアム・ペリーの沖縄訪問に同行した、NHKのドキュメンタリー番組「ペリーの告白~元米国防長官・沖縄への旅~」(20171118日初回放送)は、ペリーが沖縄の基地問題に誰より深く関わったアメリカ人だと、印象づけることに成功した。

だが、実際には、アーミテージをおいてほかに沖縄の基地問題、とりわけ普天間返還問題の解決を真剣に模索してきたアメリカ人は存在しない。彼こそは、ミスター・フテンマと呼ぶべき人物である。

 

始まりは西銘順治との出会い

 

1972年に沖縄の日本への施政権返還が実現し、さらに、1978年末には自民党衆議院議員の西銘順治が沖縄県知事に当選すると、日本本土では沖縄基地問題は争点ではなくなった。

しかし、西銘知事自身は、県内で絶えない米軍基地に付随する事故や被害、それに対する県民の憤りと向き合い続けていた。1985年に米軍事故・犯罪が相次ぐと、西銘は、同年と1988年の二度にわたって訪米し、米政府に対して直接、沖縄の米軍基地の整理縮小や海兵隊の訓練の県外移転などを訴える。

驚くべきは、西銘が当時すでに、海兵隊が保有する普天間飛行場の危険性を強調し、その返還を米政府側に申し入れていたことである。

西銘は1985年の時点では、那覇空港の近くを埋め立てて、そこに普天間飛行場を移設することを考えていた。しかし、二度目の訪米を行った1988年、西銘は「余程条件整備をやるか地域住民の支援がないとできない」として、普天間返還の「リロケーション(移設)前提は事実上不可能」で、「沖縄に移転先をみつけるのは困難」だと主張するに至る。

そして、西銘訪米の機会に、二度とも西銘と会談した米政府閣僚が、アーミテージ国防次官補だった。アーミテージは1985年、西銘から直接、「発展する都市に今や囲まれた普天間で訓練するヘリによる事故」への不安を訴えかけられる。1988年にも、西銘はアーミテージを訪ねて、普天間飛行場の危険性を重ねて強調し、その返還を要請した。

当時、日本政府が、普天間返還は「今取り組むにはあまりにも巨大」だとして消極的だったため、米側としても何もするつもりはなかった。しかし、西銘の直接の訴えはアーミテージの記憶に強く刻まれた。西銘が二度目に訪米した際、アーミテージは野球帽を贈っている。

※西銘訪米についての詳細は、オキロンの野添文彬「普天間基地『返還問題』の起源を探る~その①、②、③~」を参照のこと。

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