第一次アーミテージ・レポート
1996年4月、日米両政府が普天間返還合意を発表した後も、アーミテージにとって、普天間をめぐる問題はまだ終わっていなかった。
クリントン政権が2期8年の任期を終えようとしていた、大統領選挙中の2000年10月、アーミテージは次の政権をみすえ、超党派の専門家を集めて新たな対日政策の提言を発表した。「アメリカと日本―成熟したパートナーシップへの前進」、通称、第一次アーミテージ・レポートと呼ばれる有名な文書である。
このレポートの作成には、アーミテージのほかに、クリントン政権で「東アジア戦略報告(通称ナイ・レポート)」を策定したジョセフ・ナイ元国防次官補や、キャンベル元国防次官補代理も加わっていた。
彼らはなんと、かつてナイ自身が提唱した、東アジアでの米軍10万人態勢堅持を批判した。そして、米軍が過剰に集中する沖縄の負担を指摘し、在沖海兵隊の配備先や訓練地を、アジア太平洋全域に分散すべきだと主張したのだ。この背景には、2000年6月に、朝鮮半島で初の南北首脳会談が実現した、という歴史的な出来事があった。
大統領選挙の結果は、共和党のジョージ・W・ブッシュの勝利だった。そして、アーミテージは、ブッシュ(子)政権の国務副長官に指名され、就任する。
ところが、結論からいうと、第一次アーミテージ・レポートが、ブッシュ(子)政権で日の目を見ることはなかった。海外基地の問題や米軍再編を担当するのは、アーミテージが入った国務省ではなく、国防総省である。そして、国防長官となったドナルド・ラムズフェルドは、アーミテージとの関係が悪い上に、就任当初は沖縄に一切関心がなかったのだ。
ラムズフェルドが2003年11月に沖縄を初めて訪問し、在沖米軍の削減と基地被害を必死で訴える稲嶺恵一知事に衝撃を受けて、2001年から検討が始まっていた米軍再編に、在沖海兵隊の削減を議題として追加するまで、アーミテージは雌伏の日々を送ることになる。
在日米軍再編協議
2004年8月、普天間飛行場から離陸した直後のヘリが沖縄国際大学に墜落、炎上する事故が起きた。これを機に、小泉純一郎首相は、在日米軍再編を「沖縄の基地負担軽減」とリンクさせようと考えるようになる。日本政府は米側に対し、普天間代替施設の建設予定地である、辺野古のキャンプ・シュワブに駐留する第3海兵師団第4連隊を、国外に移転させられないか打診した。
こうした日本側の要請は、国防総省から冷ややかに迎えられた。当時、イラク戦争中だったアメリカにとって、在日米軍再編とは、自衛隊が米軍を助けるために、世界中のどこへでも駆けつけられる体制づくりを意味していた。
在日米軍再編協議の中で、米側が、グアムの米空軍司令部の東京横田基地への統合などを、日本側に提案していたのもそうした文脈だった。したがって、日本側からの、取引なしの一方的な在沖海兵隊の国外移転の提案は、日本に戦略が欠如している証左と見なされ、国防総省の落胆をさそったのだ。