米軍部への説得が欠けていた?
とはいえ、はじめからそのようなシナリオが描かれていた、すなわち少女暴行事件を、機能を更新した新基地建設計画を実現する格好の機会と見なしたという見立てにも、無理があるように思われる。
当時、米国防長官であったペリーは普天間返還合意の当事者だが、NHKの取材に答えて、朝鮮有事を見据えた派兵・中継地としての普天間基地の重要性を指摘した上で、「基地の移転となればそれは基地負担を軽減しつつ、実際には基地能力を向上させる機会でもあったのです」(ETV特集『ペリーの告白』)と語る。あたかも、すべてがあらかじめ計画されていたかに聞こえるが、それはどうであろうか(一方でペリーは、移設先は県外でも可能であったと言う)。
1996年4月に発表された普天間返還合意では、代替施設は県内の既存の基地内に建設される「ヘリポート」とされていた。しかし、まもなくして海上施設というアイデアが突然浮上し、それに伴って嘉手納統合案なども雲散霧消する。この迷走ぶりが、合意発表時における具体策の不在を裏書きしている。そこに、海兵隊の組織利益が滑り込む余地が生じたというのが実相ではなかろうか。
「60年代の計画」を実現するチャンス
当時、防衛庁防衛局長として米側との折衝にあたっていた秋山昌廣は、「そもそも米政府は、海兵隊の了解を十分に取り付けないまま、橋本首相との返還合意に踏み切ったように見えます」と語る(「普天間代替施設膨張の“謎”」『AERA』2016年9月5日号)。
一方で返還合意発表後になると、秋山の下に、米側が提示したという辺野古を大規模に埋め立て、港湾機能も備えた新基地を建設するという青写真が持ち込まれた。「(米側が)こんなもの持ち込んできましたよ」という部下に、私は「こりゃ駄目だ」と言って、はねつけました」(秋山)。ここで秋山がはねつけた青写真が、現在進行中の「現行案」とほぼ同じものである。まるで手品のような話しであろう。
現在、進められている「現行案」とほぼ同様の構想、すなわち辺野古を大規模に埋め立て、港湾設備も設ける新基地を建設する計画が、米側で1960年代に描かれていたことが明らかになっている。秋山は、「海兵隊は60年代の計画を実現するチャンスと捉えて、埋め立ても含め十分に大きな施設に持ち込みたいと考えたのではないでしょうか」と語る。