返還合意発表直後に模索された嘉手納基地への統合は、すでに町域の8割以上を基地が占める嘉手納町が強く反対したので頓挫したとされる。また、辺野古沿岸に設置するとされた海上施設は、埋め立ての方が利益にあずかることができるという地元土建業者の思惑によって、埋め立てに変更されたとされる。本当にそれが主たる理由だろうか。それほど地元の意向が計画を左右するのであれば、県との全面対立を辞さない現在の工事強行という事態は、到底説明がつかない。
確かなことは将来、米側で文書が公開されるときに分かるだろうが、いずれも米軍部の意向が主たる要因であるようにも思われる。この時期、オスプレイの配備が検討され始めていたことも、代替施設の膨張に作用したのかもしれない。
米軍部と日本側の力関係をうかがわせる一コマが、後の鳩山由紀夫政権時に、嘉手納町長が嘉手納基地司令官と会談する場面である。民主党政権下で再び嘉手納統合案が検討されていることに注意を促す嘉手納町長に対して、司令官は「日本政府は米軍に手を突っ込んで来る気か?」と、鼻で笑う対応であった(毎日新聞政治部編『琉球の星条旗』〔講談社、2010年〕106-107頁)。
近年、普天間基地近隣の学校上空を米軍機が飛ばないように日本側が申し入れても、十分な実効性が確保できていないが、このような力関係なのであれば、不思議はないのかもしれない。
米軍への説得 -戦後政治史の中心問題
このように、ピンチはチャンスとばかりに、少女暴行事件を機能も向上させた新基地建設に転じさせた米軍部であったが、振り返って見れば、戦後政治史において主要な出来事であるサンフランシスコ講和条約(1951年)、日米安保条約の改定(1960年)、そして沖縄返還(1972年)と、いずれもそこで鍵となったのは、既得権益の維持・確保にこだわる米軍部に対する政治の側からの説得であった。
占領期においては、占領軍として日本全土を制約なしに使用することができた米軍は、日本の主権回復後も、在日米軍基地の自由使用に強くこだわった。講和条約、安保改定、沖縄返還はいずれも、米軍からすれば、既得権益に制約が課されることを意味した。
これに対して米国務省は、アメリカが基地に関わる既得権益保持に拘泥すれば、対日関係そのものを損ない、冷戦下においては日本中立化といった事態を招きかねないと危惧した。この構図の中で、大統領の指導力も相まって軍部と国務省の折り合いがついたときに、対日交渉は動き始めたのである。
日本における代表的な米外交史専門家である立教大学教授の佐々木卓也は、普天間・辺野古問題をめぐる米軍部の組織利益について、「かつて対日サンフランシスコ講和会議を仕切ったアチソン(米)国務長官の、講和に至る過程で最も厄介な相手は冷戦の敵対国(ソ連)でも旧敵国(日本)でも、あるいは西側同盟国でもなく、占領期の特権的な立場に固執する米軍部であったとの述懐を想起させる」と記す(『沖縄タイムス』2017年7月30日)。
【以下、⑥につづく】