1995年の少女暴行事件は、沖縄県の反対を押し切る辺野古新基地建設の強行へと、不可解なまでにねじれることになった。一方で、新基地建設の担い手は、次のような意外とも思える言葉を漏らす。「日本は米国に戦争で負けたんです。だから米国には言えないこともある」(菅義偉・官房長官)。「みんな間違っていると僕は思っていましたよ。本当は(普天間移設を)もっとやりやすい場所があるはず、腰を据えて取り組めば、すぐに解決できる」(仲井真弘多・前沖縄県知事)。普天間・辺野古問題の「ねじれ」をもたらしている力学とは、一体、何なのだろうか。
日本外交「本流」からの逸脱
前回、述べたように、サンフランシスコ講和条約(1951年)、日米安保改定(1960年)、そして沖縄返還(1972年)と、戦後日本外交における主要な出来事において鍵となったのは、いずれも既得権益に固執する米軍に対する政治の側からの説得であった。
可能な限りの基地の自由使用にこだわる米軍の権益保持・強化の欲求がそのまま通っていれば、講和条約はいつまでも調印されずに日本は占領下におかれ、日本側からの安保改定の求めも退けられ、沖縄の施政権返還も実現しなかったということになる。
それで日米関係は安定したであろうか。大いに疑問である。そして戦後日本外交は米軍部の抵抗という厚い壁に直面しながらも、粘り強い交渉によって講和条約による主権回復、安保改定による対等性の回復、そして沖縄の施政権返還と、日本の主体性を拡大することに注力してきた。結果としてそれが、「イコール・パートナー」として、日米関係をより安定したものに近づけたことも確かであろう。
1996年4月に普天間返還合意が発表されたとき、「普天間を取り返したぞ」と声に出した橋本龍太郎首相の姿には、上記のような戦後日本外交の「本流」を彷彿とさせる。
それに対して現在の辺野古基地建設は、米軍部の一部である海兵隊の「焼け太り」ともいうべき、膨張した組織利益を現実のものとするために、日本政府が自らの手で沖縄の抵抗を正面から押し切って強行するという倒錯した状態に陥っている。戦後日本外交の矜持は、一体どこへ行ったのであろうか。