琉球政府行政主席公選50年に寄せて

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有名無実の「核抜き・本土並み」

 

「核抜き」が有名無実となったばかりか、沖縄が望む米軍基地の「本土並み」の整理縮小も、その後実現しなかった。愛知揆一外相は、沖縄返還合意の直後に屋良主席と会談し、「米軍は沖縄基地を漸次縮小する。それは予想以上のテンポで進むかもしれない」と説明した。その時点では、佐藤内閣も外務省も、1972年の沖縄返還に向けて、在沖米軍基地を整理縮小することを目指していた。

だが米軍部の執拗な抵抗に屈した結果、19716月に調印された沖縄返還協定では、返還される基地は、全体のわずか15%の約50平方kmにすぎず、在沖米軍が継続使用する基地の面積は287平方kmもあった。

屋良主席は返還協定調印の当日、この結果に不満を表明し、「今後とも県民世論を背景にして基地の整理縮小を要求し続け」る、と述べている。屋良主席はこの誓いを守ったが、日本政府は佐藤内閣から田中角栄内閣に代わった後、事実上、在沖米軍基地の整理縮小を断念した(詳細は、野添文彬『沖縄返還後の日米安保―米軍基地をめぐる相克』(吉川公文館、2016年)を参照のこと)。

文書が書かれた1968年には、まだ日本政府にも沖縄にも返還後のさまざまな可能性が開かれていた。それを閉ざしたのは既得権益を死守しようとする米軍部の暗闘であり、軍部の要求を認めた米政府である。

 

5・15メモ

 

1972515日、沖縄の施政権が米国から日本に返還された。同じ日に開催された日米合同委員会では、在沖米軍基地に関する協定が締結され、87カ所、287平方kmの基地が地位協定にもとづいて提供されることになる。

このとき同時に、在沖米軍基地の使用条件や期間などの詳細を定めた、全文で260ページにのぼる「515メモ」が日米両国の合意のもとに作成された。同メモでは、在沖米軍は原則として返還前と変わらぬ基地の使用が認められ、訓練の際には住民が日常的に利用する県道の封鎖や貯水池の使用などが許可されたほか、飛行場以外の基地でも上空訓練が可能な内容となっていた。

515メモは当初、非公表とされた。だが、返還翌年の19734月、恩納村と金武村を結ぶ県道104号線が、海兵隊による実弾射撃訓練のために封鎖される。沖縄県や恩納村の住民が日本政府と米軍に抗議した際、受けた説明によって初めて、515メモの存在が発覚した。515メモでは、県道が「米軍への提供施設」とされ、「米軍が常時使用してもよい」が、「米軍の活動を妨げない限り一般住民の使用が認められて」いたのだ。

なぜ、日本政府は、515メモのような合意を結んだのか。佐藤内閣や外務省が、当初目指した在沖米軍基地の整理縮小がほぼ達成できなかった後、返還後も残る基地を、形の上だけでも少なく見せかけようとした結果だと推察される。515メモを非公表にすることで、佐藤内閣は、返還後の在沖米軍基地の実態について、国民の目をあざむいたと言わざるをえない。

※本稿は、『沖縄タイムス』20181113日付の寄稿文を加筆修正したものである。

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