琉球政府行政主席公選50年に寄せて

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初の公選主席となった屋良朝苗

 

19681110日に初めて実施された琉球政府行政主席公選で、沖縄戦から米軍占領下におかれた沖縄の「即時無条件全面復帰」を訴える、屋良朝苗氏が当選したことは、沖縄返還のターニングポイントとなった。

米軍による沖縄統治組織として、琉球列島米国民政府(USCAR)が設置された1950年以降、住民の自治組織である琉球政府のトップとなる行政主席は、米軍が任命してきた。自治とは名ばかりで、琉球政府が米軍の意に染まない政策を打ち出せば、すぐさま中止や変更を命じられた。

しかし、自治を求め続ける住民の運動の中で、主席公選制の要求が高まり、1968年にようやく実現した。そして屋良朝苗氏が、米軍と日本政府の推す西銘順治前那覇市長を3万票以上の差で破り、初の公選主席に当選する。投票率は89.11%だった。

主席公選の翌月に日本政府沖縄事務所が作成し、外務省に回覧した「11月選挙後の沖縄政策」と題する文書には、「県民の多くが異民族支配の継続を拒否して祖国復帰の一日も早からんことを熱願している以上、屋良氏が当選するのは当然の成行きであった」と書かれている。

日本政府沖縄事務所とは、今日の内閣府沖縄総合事務局の前身である。サンフランシスコ講和条約が発効した1952年、吉田茂首相の指示で、総理府の機関として那覇日本政府南方連絡事務所が沖縄に設置される。サンフランシスコ講和条約第3条で、沖縄や奄美、小笠原などは、日本の独立回復後も米軍統治下におかれることになっていた。だが、吉田首相は、沖縄の施政権の将来的な返還を目指して、日本政府沖縄事務所を開設させたのだ。

なお、この文書は2010年に公開され、平良好利氏がいち早く入手・分析された。詳細は平良著『戦後沖縄と米軍基地―「受容」と「拒絶」のはざまで 1945~1972年』(法政大学出版局、2012年)をご覧いただきたい。

 

沖縄返還の条件

 

「『屋良朝苗』といえば『祖国復帰』」といわれる主席の誕生によって、日米両政府とも、沖縄の施政権返還はもはや不可避だと悟った。そうなって、日米両国が問題としたのは、沖縄の米軍基地をどうするかということだった。

日米両政府とも、米軍基地の維持を前提とした沖縄の施政権返還を想定していた。だが、前述の文書いわく、「沖縄基地の存在が住民の反感を誘発し、沖縄の政情が不安定となり、基地の米軍と沖縄住民との間に紛争が絶えない事態が起るとすれば、そのこと自体によって沖縄基地の基地としての重要性が低下せざるをえない」。

そこで、日本政府は文書にあるように、屋良新主席が「基地の自由使用反対」「核からくる不安の除去」を主張する一方、「基地の撤去」には言及していないことに希望を見いだそうとする。

そして、沖縄返還をめぐる日米交渉で、佐藤栄作内閣は沖縄からの核兵器撤去と、事前協議を含めた日米安保条約・地位協定を、沖縄にも日本本土と同様に適用するよう求めた。しかし、米側は有事の沖縄への核持ち込みと在沖米軍の戦闘作戦行動の自由を求め、最終的には、米側の要求を認める密約が結ばれたことで、「核抜き・本土並み」の沖縄施政権返還の日米合意が196911月に発表される。

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