「沖縄に要らないものは本土にも要らない」論を問う

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7.冒頭の問いの答え

 

故翁長知事や玉城知事も主張している「日米安保体制が重要なら、その負担も国民全体で担うべきだ」との訴えに対し、「私たちの主張は沖縄に要らないものはどこにも要らないというものだ。日米安保体制を重要だとは認識していない私たちは、その訴えの対象に含まれない」という応答は、民主主義に照らして正当な判断といえるのだろうか、との冒頭の問いに戻る。
私たちの主張は、安全保障における共産党の考えを封印しろというものでも、凍結しろというものでもない。

物事の根源的な多様性を支持する立場を多元主義というが、民主主義国家においては、市民には安全保障も含めて様々な主張や考え方があるということを当然の前提としている。
したがって私たちが求める民主主義による解決とは、全国の市民が当事者意識を持った真剣な国民的議論を行い、それによっても普天間基地の代替施設が日本国内に必要だという世論が多数を占めるのであれば、たとえ自己の主義主張と異なった結果になったとしても、一旦はその決定の中で公正で民主的な解決を探らなければならない、という当然のことを求めているに過ぎない。

「沖縄に要らないものは本土にも要らない」と本気で主張するのであれば、少なくとも国政選挙において日米安保破棄等を明確に争点として掲げ、多数の信任を得て、民主主義の正当な手続きを経ることでそれを推し進めるべきである。

普天間基地の返還が20年かけて「なぜ1ミリも進まないのか」という問いに対する回答は、政府・与党も、野党も、日本の政治が戦後ずっとこの過程を踏まず、逃げ続けてきたからこそ、「辺野古が唯一」という構造が固定化されてきたということに尽きる。

西洋政治思想史学者のC・ダグラス・ラミスは、憲法9条による日本の非軍事化と日米安保、この両立するはずのない二重意識が崩れないのは、沖縄の存在によるものだと指摘している。
左右両派の矛盾する勢力を固定する「要石」の役割を課された沖縄は、日本から見えにくい、日本人がなるべく考えずにすむ状況下で、辺野古埋め立てが強行に進められている。
「沖縄に要らないものは本土にも要らない」という理念、理想は、民主主義の中で実践するべきであり、「新しい提案」は本土に住む人たちが当事者としての責任意識を持ち、普天間・辺野古問題の解決の道を開くことを求めるものである。

 

(1)防衛省HP  http://www.mod.go.jp/j/approach/zaibeigun/okinawa/saco_final/keii.html

(2)①2010224日「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と県内移設に反対し、国外・県外移設を求める意見書」、②20111114日「米軍普天間飛行場の辺野古移設に反対し、環境影響評価書の提出断念を求める意見書」、③20171128日「在沖米海兵隊員による飲酒運転死亡事故に関する抗議決議」、④2018119日「相次ぐ米軍機の事故等に関する抗議決議」、⑤同年21日「たび重なる米軍ヘリコプターの不時着事故と普天間第二小学校の上空飛行に関する抗議決議」、⑥同年221日「米軍MV22オスプレイの部品落下事故に関する抗議決議」

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