最初から守られなかった「15年使用期限」―沖縄サミット決定20年に寄せて―

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普天間移設の梃子だった沖縄サミット

 

小渕恵三首相の訪米直前の1999年4月29日。翌年7月に日本で開催される、主要首脳会議(サミット)の会場の一つに、沖縄が選ばれたことが発表される。当時の日本のメディアは、米軍基地が集中し、普天間移設をめぐって揺れる沖縄での開催に、米国が反対していると報じた。

だが、私が入手した米政府文書によれば、事実は異なる。

小渕首相をワシントンDCに迎えての日米首脳会談に向け、米国務省が作成した、ビル・クリントン大統領宛ての説明メモ。それによれば、1998年11月の沖縄知事選で、稲嶺恵一氏が、普天間飛行場の県内移設に反対する現職の大田昌秀氏を破って当選。加えて、沖縄サミットが「サプライズ」決定されたことで、普天間飛行場の県内移設が大きく進むと期待されていた。メモは、大統領が首相に今後2、3カ月が「正念場」であると理解させ、移設実現へ向けて、首相が個人的に関与するよう迫ることを求めていた。

この後、事態はメモ通りに進む。

 

利用された小渕首相と稲嶺知事の信頼関係

 

1996年4月12日に、橋本龍太郎首相とウォルター・モンデール米駐日大使が発表した、普天間返還合意は、5~7年以内の代替施設の完成が条件となっていた。97年から2期目に入ったクリントン大統領は、4年後の任期終了までに代替施設建設の着工にこぎ着け、普天間問題の解決という実績がほしかった。

そこで、クリントン政権は、小渕首相と稲嶺沖縄県知事の個人的パイプに着目する。小渕氏は自民党参院議員も務めた琉球石油(当時)社長の稲嶺一郎氏と若いころから親しく、その息子の恵一氏とも知事就任以前から交流があった。移設協議を円滑に進めるため、小渕氏と稲嶺氏との信頼関係に期待したのだろう。

1999年7月には、ウィリアム・コーエン米国防長官が、普天間移設先の候補地を年内に決定するスケジュールを、日本側に突きつける。米側は同年中に移設実現のめどをつけ、翌年の沖縄サミットで日米同盟の緊密さを対外的にPRしようと考えていた。

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