最初から守られなかった「15年使用期限」―沖縄サミット決定20年に寄せて―

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「ブッチホン」の異名をとった小渕首相の熱心な説得の末、1999年末に稲嶺知事と岸本健男名護市長は、条件つきで辺野古沿岸域への代替施設受け入れを表明する。稲嶺知事が条件としたのは、知事選の公約でもある代替施設の「軍民共用」と「15年使用期限」だ。

この二つの条件にこだわったのは、自民党沖縄県連幹事長として稲嶺知事の選挙活動を全面的に支えた、故・翁長雄志氏である。翁長氏は、後に朝日新聞のインタビューで、「防衛省〔当時は防衛庁〕の守屋武昌さんらに『そうでないと選挙に勝てません』と」言って、公約を認めさせたと語っている。

 

裏切られていた信頼

 

1999年12月28日、小渕内閣は稲嶺知事の二つの普天間移設条件を閣議決定した。ただし、「15年使用期限」については、かなり微妙な内容となっている。国際情勢上厳しい問題があるが、沖縄側の要請を重く受け止めて対米協議の中で取り上げる、との見解を示すにとどめたのだ。いわば、努力目標にすぎない。

このとき、クリントン政権は小渕内閣に対し、稲嶺知事が課した移設条件を「時間をかけて対応すべき問題」として、日米交渉を先送りし、代替施設建設の目途をつけることを優先するよう求めていた。また、「軍民共用」の方は受け入れられる、と伝えていた。つまり、「15年使用期限」は受け入れられない、ということである。

米側が「15年使用期限」に難色を示す状況で、小渕首相はどのような交渉を行うつもりだったのか。推測だが、小渕首相はおそらく、沖縄の立場に立ってアメリカと協議したが、結果として受け入れられなかったとして、稲嶺知事に頭を下げる、という段取りを考えていたのではないか。稲嶺知事の体面を保ちつつ断念させる、政治的な高等戦術だ。だが、2000年4月、小渕首相は脳梗塞で倒れ、急逝する。

 

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