基地問題解決の方向性を考える

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「ポストモダン国家」としての戦後日本

 

また、これとの関連でいま少し議論を進めると、私は戦後日本とはある意味では「ポストモダン国家」だと考えており、「護憲派」も「安保派」も、そのポストモダン的な枠組みのなかで日本の安全保障はもちろんのこと、「国のかたち」そのものを考えてきたと思っている。 

戦後日本が「ポストモダン国家」だというのは、戦後日本の骨格を形成した憲法9条自体が近代主権国家の論理を超えようとする1920年代の思想、すなわち「戦争違法化」や「集団安全保障」などの考え方を基盤にしているからである。さらに9条自体はそれを超えて「戦力不保持」や「交戦権否認」まで謳っていることを考えると、その9条を基盤に「国のかたち」を整えてきた戦後日本は、世界の中で最もポストモダン的な色彩を強くもった国家だといえる。少なくとも1960年代以降の日本が岸や重光的な「主権」や「対等性」や「自立」などの問題にあまりこだわりをみせなかったのも、もしかしたらこの辺りに理由があるのかもしれない。 

そう考えると、「ポストモダン国家」である日本が基地問題というきわめてモダンな問題をモダンな方法で解決するのではなく、ポストモダン的にどう解決するか、ということが課題として浮かび上がってくる。すなわち、上記の岸的な方向性ではなく、第3の方向性をどう練り上げていくか、また「護憲派」と「安保派」がどうみずからを超えることができるのか、という課題である。そしてそのことは、「普通の国」路線ではない路線をどう考え、再構築できるのか、ということでもある。 

いずれにしても、沖縄の過重な基地負担をどう解決するのかは、9条と安保条約を基盤に形成された戦後日本の「国のかたち」をどう克服するか、という問題に直結するものであり、このレベルでの議論を深めていくことが、いま必要ではないだろうか。とくに、この2月に沖縄で県民投票が行われることを考えれば、また基地引取り運動や小金井市議会の意見書採択のように、本土でも沖縄の基地問題をみずからの問題として捉えようという動きが出始めていることを考えれば、現在はまさに議論の次元を変えるよい機会である。

 

 *本稿はかつて発表した2つの拙稿(「米軍基地問題は日本全体の問題だ 同情や批判にとどまらない挑戦を」『Journalism20159月号、「辺野古を含む沖縄の基地問題をいかに解決するか」『WEBRONZA2018212日)の一部を加筆・修正した上で統合し、最近の考えも若干加味したものである。

 

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