基地問題解決の方向性を考える

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「国のかたち」に直結する問題

 

沖縄の過重な基地負担は、突き詰めれば戦後日本の「国のかたち」そのものにかかわる問題であり、その過重負担の問題に戦後日本の矛盾が凝縮的に詰まっている、というのがこれまでの私の議論であった。そして、昨年8月に急逝した翁長雄志前知事が真に対決した相手も、実はこの「国のかたち」であった、というのが私の見解である。

 つまり、憲法9条によりかかってそこに安住する「護憲派」と、安全保障上の負担を引き受ける覚悟もなく、また自立の問題にも鈍感な「安保派」の双方を、彼は問題にしたのである。もっといえば、沖縄に過重な基地負担を負わせたまま憲法9条と日米安保条約によって成り立ってきたこの「国のかたち」そのものと、翁長氏は対峙したのである(拙稿「翁長雄志が真に対決したものは」https://okiron.net/archives/797)。

 

オキロンで何度か述べたように、そもそも日米安保条約の本質は「物と人との協力」にある。すなわち、日本がアメリカに基地(物)を提供し、アメリカは日本に軍隊(人)を提供する、言い換えれば日本がアメリカに基地を提供することと引き換えにアメリカに守ってもらう、というのが同条約の本質である。

 この日米間の非対称的な関係を俎上に乗せた上で、元防衛大臣の石破茂氏は、在沖米軍基地の国外移転がなぜ困難なのかを説明している。すなわち、憲法9条による制約のため、日本は軍隊(人)をアメリカに提供できず、代わりに基地(物)を提供することで守ってもらっている。そのためアメリカに「この基地がなければ(日本は)守れないよ」と言われれば、日本はこれ以上「無理強い」することはできない。つまり、守ってもらっている立場の日本から「基地がじゃまになってきたからどけてくれ」というのは「なかなか言いにくい」、というのが同氏の見解である(拙稿「なぜ米軍基地の国外移転は進まないのか」https://okiron.net/archives/672)。

 以上の構図と論理を踏まえて沖縄の基地問題を解決する方途を考えてみると、少なくとも次の3つの方向性が浮かび上がってくる。

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