素朴な問いを考える
今回の論考ではこれまでの議論を踏まえた上で、なぜこれだけ広大な米軍基地がいまも沖縄に存在しているのか、という素朴な疑問を考えてみたい。この素朴ながらも根源的な問いを皆で考えていかない限り、沖縄の過重負担を解消するための方途も見出せないのではないか、と思ったからである。この過重負担を解消するためには、大きくいって2つの方向がある。1つは基地の国外移転である。もう1つは本土移転による解消である。今回は前者の問題を少し歴史の大きな文脈の中で考えてみたい。
そもそも対日平和条約の発効によって日本が主権を回復した1952年時点において、本土における米軍基地の面積は13万5200ヘクタールもあった。これは、当時1万6000ヘクタールであった沖縄と比べ、実に8倍以上の規模である。こうした広大な米軍基地があるがゆえに、1950年代の日本では、全国各地で米軍絡みの事件・事故が多発し、しかも基地の新設・拡張をめざす米軍に対して反基地闘争が繰り広げられ、国内では「反基地」「反米」感情が渦巻くことになる。
実態は占領軍の継続的駐留
こうした状況のなか、1955年に重光葵外務大臣は在日米軍の撤退をアメリカに要求するが、その重光および外務省(下田武三条約局長)の駐留米軍に対する認識は、「実態的には大規模な占領軍の継続的駐留」である、というものであった(吉田真吾『日米同盟の制度化』)。こうした考えは、1957年に首相の座に就いた岸信介にも共有されており、岸も米軍の撤退をアメリカ側に要求し、同年6月の日米首脳会談で理解を得ることになる。これを受けて本土からは次々とアメリカの陸軍と海兵隊が撤退し、1960年には基地の面積も実に3万ヘクタール台にまで一気に削減されることになる(一方、沖縄では本土から移駐した海兵隊が大規模な土地を接収したことにより、基地の面積は本土と同じ3万ヘクタール台にまで拡大する)。
しかし、このように陸軍と海兵隊の大部分が撤退したとはいえ、本土にはいまだアメリカの空軍と海軍が残留しており、しかも首都近郊の広大な地域を基地として確保していた。日本はこの頃から高度経済成長に入り、敗戦で失ったナショナル・プライドも徐々に回復してきたこともあって、首都近郊にいまだ「敗戦と占領」の負のイメージを喚起させる米軍基地が厳として存在していることは、決して好ましいものではなかった。1970年に首相の佐藤栄作が国会で次のように述べたことは、そのことを端的に示している。
「外国の兵隊が首府のそばにたくさんいるという、そういうような状態は好ましい状態ではない」
かくして、「関東計画」が実行されるなどして米軍基地の縮小がさらに進み、1970年代半ばまでには、実に8000ヘクタール台にまで削減されるのであった。