なぜ米軍基地の国外移転は進まないのか

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占領の「残滓」の払拭

 

以上の重光葵や岸信介、あるいは佐藤栄作などの政治指導者をして、米軍の撤退および基地の縮小へと走らせたものは一体何だったのか。それは、重光らの言葉を借りて言えば、「真に独立国家たるの実を挙げる」(吉田、前掲書)ためであり、また安保改定を成し遂げた岸信介の表現を借りるならば、占領の「残滓」の払拭であった。つまり、「占領時代のかすみたいなもの」をなくして「日米を対等の地位に置く」(原彬久『日米関係の構図』)といったものが、強弱の違いはあれ、日本の政治指導者たちを突き動かす原動力になったのである。

こうしたものを駆動力にして、1960年には日米安保条約を改定し、また72年には沖縄返還を実現し、さらに50年代から70年代にかけては在日米軍の撤退および基地の縮小を実現していったのが、主権回復後の日本の姿であった。これによって日本は、占領の「残滓」の払拭という戦後政治の課題に“ひとまず”ケリをつけたのである。

しかし、ここで少し立ち止まって考えなければならないことは、日米関係の根幹に位置する米軍および米軍基地についてである。旧条約の作成に携わった外務省の西村熊雄条約局長によれば、そもそも日米安保条約の本質は、「物と人との協力」にある。すなわち、日本がアメリカに基地(物)を提供し、アメリカは日本に軍隊(人)を提供する、もっと端的に言えば日本がアメリカに基地を提供することと引き換えにアメリカに守ってもらう、というのが同条約の本質である。したがって、日本としてはアメリカに守ってもらうために、「物」である基地を提供し続けなければならないのである。

 

根本的なジレンマ

 

だが、その一方で主権回復後の日本がめざしたものは、上記の通り、米軍の撤退および基地の縮小であった。そう考えると、日本の抱える根本的なジレンマがここにあるといえよう。つまり、アメリカに守ってもらうためには基地を提供しなければならないが、一方で占領の「残滓」を払拭するためには米軍の撤退および基地の縮小を進めていかなければならない、というジレンマである。

しかし、占領の「残滓」の払拭よりも安全保障面での不安が歴史的に強く現われはじめるのは、米軍の撤退がかなり進んだ1970年代に入ってからである。例えば、1970年に在日米軍の大幅撤退案をアメリカが示した際、防衛庁・自衛隊の内部では、日本防衛のための在日米軍は「既に限界をわっている」という意見や、「今回の提案が最低限」といった意見などが出され、米軍のさらなる撤退に懸念を示している。また、「エアフォースは、既に有事駐留に近い姿である」という認識まで示され、「米軍が現実に(日本に)存在するのと、(外から)来ることができるというのは違う」といった意見や、あるいは米軍が日本に来援するための「人質」がいなくなってしまう、という懸念まで飛び交うことになる(吉田、前掲書)。

さらに、日本に残っていた唯一の地上戦闘部隊である海兵隊の沖縄からの撤退案が73年にアメリカ側から浮上してきた際、外務省と防衛庁は、海兵隊のプレゼンスは重要だとして、その駐留継続を要請している(野添文彬『沖縄返還後の日米安保』)。

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