核での本土防衛を期待された在沖海兵隊

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沖縄の上に成り立つ日本の平和

 

読谷村に配備されていたナイキハーキュリーズ地対空ミサイル(1961年撮影)※沖縄県公文書館所蔵

 

安保改定交渉や沖縄返還交渉を担当した、米国務省のリチャード・スナイダー氏は、回顧録で、海兵隊は1958年には、実戦での核使用が可能だったと書いている。この年、第二次台湾海峡危機が勃発。海兵隊は台湾海峡に出動するため、山口県岩国基地沖で、将官艇に核兵器を積んで待機していたというのだ。結局、出動命令は下されなかった。

1950年代半ばから、反核感情の強い日本本土に代わって、沖縄が核基地とされていった事実は、以前からよく知られている。1954年末頃、沖縄への最初の核配備が行われ、1959年には、地対空ミサイルであるナイキ・ハーキュリーズが配備。沖縄が日本に返還される1972年までに、約1300発もの核兵器が、米軍占領下の沖縄に持ち込まれたという。

だが、沖縄に置かれた米国の部隊と核兵器が、日本政府から本土防衛の役割を期待されていた事実が判明したのは、今回の外交記録公開が初めてである。

外務省が1957年に、沖縄施政権返還を実現すれば、「沖縄住民も同胞として祖国の防衛の念に徹し、基地に積極的協力することが可能となる」と考えていたことも、新史料で明らかになった。在沖米軍基地は日本の安全保障に不可欠であり、沖縄住民が基地の維持に協力する手段として、沖縄施政権返還が重視されていたのだ。

同年6月に訪米した岸信介首相は、米側に対して事前に「沖縄在住の80万の人々は日本人」と主張、沖縄の将来的返還を要請しようとした。他方で岸は当時、沖縄住民が米軍基地を受け入れ、さらに自衛隊に入隊することを期待していた。当時も現在も、政府の沖縄観は変わらない。

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