なぜ普天間の「高知移設案」は幻に終わったのか【上】

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政府が民主主義を曲げてまで新基地を強行するドグマ「辺野古が唯一」。しかし、実は1990年代以降に本土移設の可能性が検討され、一時は実現へのレールに乗り、国内政治の力学の内に潰えていった。そんな知られざる経緯が当事者の証言により浮かび上がってきた。これにより、「辺野古が唯一」の根拠はさらに疑いを増すと共に、なぜかようなドグマに収斂していったのかを問わざるをえなくなる。

政府内で検討された高知移設案

普天間飛行場返還の原点は95年の米兵による少女暴行事件、それを受けたSACO(沖縄に関する特別行動委員会)の設置、そして96年4月15日に「今後5~7年以内に十分な代替施設が完成した後、普天間飛行場を返還する」と当時の橋本龍太郎首相自らが会見で表明した中間報告であるとされてきた。同年12月2日のSACO最終報告において普天間飛行場の代替施設について、本土は候補地に挙がらず、「沖縄本島の東海岸沖」が候補に挙がり、翌97年1月、日米両政府で移設先をキャンプ・シュワブ沖、すなわち名護市辺野古沖とする合意がなされ、今日までの混迷が続く。しかし実は、SACO以前から沖縄の米軍海兵隊(普天間飛行場)の具体的な本土移設の計画があった。それが、幻に終わった高知県西南地域への移設計画案だ。

この幻に終わった普天間飛行場の移設計画案を詳らかに語っているのが元参議院議員の平野貞夫である(以下文中敬称略)。平野は1935年高知県土佐清水市生まれで、衆議院事務局で議長秘書などを経て委員部長、92年には参議院議員(高知県選挙区)となり、小沢一郎の補佐役として行動を共にする。自民党から93年には新生党、98年には自由党、2003年には自由党が解散し民主党合流後、04年参議院選挙不出馬。以降、政治評論・執筆活動を行っている。衆議院事務局当時から日々の記録をこと細かく残すことから、「メモ魔」と呼ばれていたという。

本稿は、「月刊タイムズ2015年6月号」、平野のブログである「国づくり人づくり政治講座《『政(まつりごと)の心』を求めて》第49~52回-『日本の政治の現状(11)~(14)』」、「『日本一新運動』の原点-305~307沖縄米軍基地移設問題について(1)~(3)」、平野がまとめた「沖縄米軍基地移設問題について2016年1月31日」、平野の動画「平野貞夫・寺子屋ルネッサンス・勉強会【沖縄基地問題の歴史を学ぶ】2018年9月17日」などの平野の証言を基に構成している。当時の新聞報道や国会議事録、議会意見書などできる限り裏付けをとって整理し、政府が言うように普天間飛行場の移転先は本当に辺野古しかないのか。その内実を明らかにしようというものである。

1990年11月、当時は海部政権の時代である。平野は衆議院事務局委員部長で、PKO合意などの国会運営の事務を担当し、与野党の相談役だったという。かねて親交のあった当時の防衛施設庁の萩次郎審議官から平野の地元である高知県の西南地域の足摺岬と宿毛湾の付近の山岳部の国有地に沖縄の米軍海兵隊(普天間飛行場)を移設するという案に協力してほしいとの打診があったという。

ポイントはこうだ。

  • 冷戦が終わって政府も沖縄の米軍基地の縮小や移設を真剣に考えている。
  • 当初は、沖縄の米軍海兵隊を山口県岩国に移転する計画であったが、岩国基地拡張だと滑走路をつくるため海の埋立てと漁業補償等があり、約1兆2~3千億円と巨額の費用を要する。
  • 平野の故里の高知県西南地域の三原村と土佐清水市の間にある山間部の丘陵が国有地、西日本では唯一4000m級の滑走路の空港建設が可能で、近くには戦前日本海軍の演習港だった宿毛湾がある。推定総工事費は約3200億円。岩国基地拡張の約4分の1、周辺を整備しても半分以下の予算ときわめて安く済む。国費の無駄使いとならないためにも、高知西南部が適当であり、地元を説得することに協力して欲しい。

驚くのは当時、政府の側に沖縄の米海兵隊を本土に移設する構想があったということだ。平野はこの話を当時、高知県西南地域に空港建設を熱望していた同県の中内功知事に極秘事項として相談したところ、「私は来年の任期切れで引退する。心残りは陸の孤島、四万十川・足摺岬・宿毛湾の僻地対策だ。運輸省は600メートルの簡易空港しか認めない。防衛庁の話は絶好のチャンスだ。しかし、米軍基地だけを移すとなると住民を説得するのに時間が掛かる。なんとか良い智恵を考えてくれ。知事として最後の仕事として道筋をつけたい」と賛同してくれたという。

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