国連PKO訓練センター誘致
91年11月、海部政権を引き継いだ宮沢喜一政権は「PKO協力法案」の成立を優先させ、12月には衆議院を通過させる。
高知県の中内知事の任期が91年12月で満了し、新知事には、NHKを退職して知事選に挑んだ橋本龍太郎の異母弟の橋本大二郎が、自民党推薦の候補者、共産党推薦の候補者を破り、高知県知事選挙史上最多の31万6968票を獲得して初当選した(当時最年少知事44歳)。平野は、橋本大二郎の出馬にあたり会談し、「PKO訓練センターの誘致」の約束を取り付けたという。
92年7月、平野は橋本大二郎知事当選に伴う自民党の責任問題などの流れで、自民党経世会の県連若手から推され、参議院選挙に無所属(自民・公明推薦)で高知地方区から出馬することになる。平野の選挙公約の中心は「ジョン万次郎記念国際貢献センターの建設」。平野は「米ソ冷戦終結後は、国連を中心に国際秩序が維持されるべきである。高知県西南地域は、東アジアの空と海の拠点であり、安全保障のため貢献すべき役割を持っている」と訴えた。当時自民、公明、民社だけでなく社会党の一部まで支援してくれたという。特に自民党衆議院議員の中谷元氏と山本有二氏は、沖縄米軍基地の移設を含みとして、積極的に支援してくれたという。そして平野は、参院選挙に当選、公約の実現に移ることになる。
一方、国会では92年6月に「PKO協力法案」が大混乱を経て成立。9月にはカンボジアでのPKOに自衛隊が初参加することになる。
93年1月に始まった衆議院予算委員会では、当時の公明党の市川雄一議員が「(日本が費用を負担して)アジアにPKO共同訓練センターを作ったらどうか」と質問し、当時の渡辺美智雄外務大臣は「先般、明石代表から、日本に設置したらどうだというような話があったことがございます。したがいまして、この話は私はまじめに検討する必要がある。どこに置くかということも含めましてね。」と答弁し、当時の宮澤喜一内閣総理大臣も、「今、外務大臣のお答えになられましたことで結構と思います。」と答弁している。当時の社会党の伊藤忠治議員はさらに踏み込んで「私は待機軍方式のアジアのそういうPKO部隊を編成していくためにも、言うならばアジアにつくるんじゃなくて、わが国内にそういう訓練センターをつくる」べきだと提案し、渡辺外務大臣は「私は、大変一つの立派な御高見であると高く評価をします。」と答弁し、宮澤総理も「いろいろありますけども、せっかく建設的なことをおっしゃっていただいておりますので、よく考えさせていただきます。」と答弁している。
同年8月には、自民党に代わって細川非自民連立政権が誕生する。国連中心主義が安全保障の基本政策となる。そのような中、同年11月2日に地元の三原村議会が「国際貢献センター建設についての要望決議」を可決し、翌日高知新聞が一面のほとんどを埋めて報道する。記事のなかには、平野のコメントが掲載されているが、「とりあえず、首都圏の米軍基地を整理し、軍縮時代を念頭に自衛隊とは別組織の対外活動(国際貢献)を増やすというのが、小沢(新生党)代表幹事の基本的考えだ」とされ、沖縄の米軍基地負担軽減のことは書かれていない。その点について平野は、沖縄の米軍基地の移設ということになると地元の反発が出るので、それを避けた表現にしたと述べている。
同年12月21日には土佐清水市議会も意見書を可決した。
この意見書には「土佐清水市は①四国西南部に位置し、三原村と隣接した両市村にまたがり大型空港建設が容易と思われる。②重要港湾(宿毛湾)を持つ宿毛市と境を接し、また市内にあしずり港(地方港湾)を有し、海空総合利用が可能である。③運輸省、防衛庁の航空レーダーが市内に既に建設され、また建設中であり、空路の要衝である。④幕末にわが国の開国、国際交流に活躍したジョン万次郎の出身であり、現在国際交流も盛んである。以上の理由により、国内における最適地と考え下記事項の総合施設として『国際貢献センター』(仮称)の建設を要望する。」と記載され、その他、政府専用機の常駐、関西国際空港の避難空港としての併用、民間空港としての併用が書かれているが、沖縄の米軍基地については何も触れられていない。
このように土佐清水市議会も同様の「国際貢献センター建設についての要望決議」を可決し、三原村と一体となって誘致運動を行うこととなる。