なぜ普天間の「高知移設案」は幻に終わったのか【上】

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「平野さんは軍隊好きだ」

「羽田・小沢グループ」が、宮沢内閣不信任決議案に賛成し、離党して新進党を結成する。解散・総選挙を経て非自民政権が誕生し、自民党は政権から転げ落ちる。平野によると、小沢に対する自民党の恨み辛みは深く、それは現在まで続いているという。

しかし、93年8月に非自民の細川政権が成立した後、野党になった自民党も国連PKO訓練センター誘致に関しては協力的で、93年11月11日の第128回衆議院安全保障問題特別委員会で、後に防衛庁長官(第一次小泉内閣)、防衛大臣(第三次安倍内閣)となる中谷元議員が「私の郷里の高知県三原村というところで、今年の11月2日に村の臨時議会を開きまして、自衛隊とは別組織の国際災害救援センター並びにPKOセンター等を想定して、この村に国際貢献センターを誘致したいという旨の、全国でも初めての決議が行われたわけでございます。こういうふうな国際貢献センターにつきましてどのようにお感じになられるのか」と質問し、当時の中西啓介防衛庁長官が「PKO活動というものは極めて中枢に位置づけていくべき価値のあるものだと私は考えておりますから、今そういうPKO活動に備える、訓練を行うというような専門的な場所もございません。そんな中で、この間、中谷さんの郷里である高知県の方から、実は新進党の平野参議院議員からその話を承りまして、大変ありがたく平野さんのお話を承らせていただいた。でき得れば平野さんの意向に沿ってやれればなと、個人的には私自身そのように感じております。」と推進する答弁も得ていた。

この時期、防衛庁官房参事官(施設担当)に就任していた萩次郎から「隣接市町村の同意があれば調査を始めたいので、根回しをやってほしい」と要望があったという。

高知県西南部に国際貢献としてのセンターを建設する運動は、隣接する市町村長会が誘致決議をすれば、防衛施設庁が直ちに本格調査を行うことまで話がついていたのだ。

しかし、知事選時に理解を示していた高知県知事の橋本大二郎に 平野が 協力を求めたところ、「あまり急がない方が良いですよ。県内には『平野さんは軍隊好きだ』という噂があります。」と慎重論に傾いたという。

平野によると、ひとつは共産党による反対運動によるとのこと。当時共産党の参院議員の上田耕一郎から「共産党は反対だ。地元から『帰省して反対運動を指導してほしい』ということなので、資料をほしい」と言ってきたという。

橋本大二郎は空港誘致を進めた中内前知事の次に91年12月から自民党推薦の候補者、共産党推薦の候補者をやぶり高知県知事になった。その後、高知県共産党は行政改革など橋本県政を支える立場となる。高知県共産党への配慮があったのだろうか。

もうひとつは、自民党の利権議員たちからの妨害があったという。空港候補地に隣接する宿毛市長と高知県選出の自民党国会議員が直接、平野に「国有地にPKO訓練センターをつくる構想から下りる」との通告があったという。平野は参院選挙中、自民党からの支援も受けており、地域振興としても最適と賛同してくれていたが、利権がらみで「PKO訓練センター」の設置に反対するようになったとのことである。

その利権とは、平野によると、愛媛県との県境にある住友林業の森林を利用した「第3種空港」をつくるというもので、愛媛県選出の自民党国会議員と協力して運動するというものであった。

決して潤沢ではない両県に、約400億円の地元負担が必要となる事業ができるはずもない。平野は宿毛市長や自民党の国会議員が変心した理由を当時理解できなかったが、参議院議員を引退した直後にある元検事から「平野構想が実現できなくて残念だ。あの時期、高知地検は住友林業から政界に流れた疑惑の資金を調査していたが立件できなかった」ことを聞いたと述懐している。

94年6月、細川内閣の突然の「国民福祉税」表明と総辞職、羽田内閣成立後の社会党とさきがけの政権離脱で非自民政権が崩壊し、村山自社さ政権が成立。小沢の「国連中心主義」は棚上げとなり、表裏の関係にあった「PKO訓練センター誘致」もお蔵入りとなり、平野は絶望の淵に立つことになる。
 盛り上がりを見せた「PKO訓練センター誘致」運動は、暗雲が立ち込め94年に決定的に挫折することになる。

 このようにして幻となった普天間飛行場の高知県西南地域への移設計画案だが、95年に沖縄で起こる海兵隊ら3名の米兵による少女暴行事件以降、再度浮上することとなる。しかも、高知県宿毛湾への那覇軍港の移設案も含めて。

<以下、【中 】 に続く。>

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