なぜ普天間の「高知移設案」は幻に終わったのか【中】

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政府が民主主義を曲げてまで新基地を強行するドグマ「辺野古が唯一」。しかし、実は1990年代以降に本土移設の可能性が検討され、一時は実現へのレールに乗り、国内政治の力学の内に潰えていった。そんな知られざる経緯が当事者の証言により浮かび上がってきた。これにより、「辺野古が唯一」の根拠はさらに疑いを増すと共に、なぜかようなドグマに収斂していったのかを問わざるをえなくなる。

本稿は、「月刊タイムズ2015年6月号」、平野のブログである「国づくり人づくり政治講座《『政(まつりごと)の心』を求めて》第49~52回-『日本の政治の現状(11)~(14)』」、「『日本一新運動』の原点-305~307沖縄米軍基地移設問題について(1)~(3)」、平野がまとめた「沖縄米軍基地移設問題について2016年1月31日」、平野の動画「平野貞夫・寺子屋ルネッサンス・勉強会【沖縄基地問題の歴史を学ぶ】2018年9月17日」などの平野の証言を基に構成している。当時の新聞報道や国会議事録、議会意見書などできる限り裏付けをとって整理し、政府が言うように普天間飛行場の移転先は本当に辺野古しかないのか。その内実を明らかにしようというものである。

「沖縄米軍基地縮小促進法」(仮称)の構想

95年9月4日、海兵隊ら3名の米兵による12歳の沖縄の少女への拉致、監禁、暴行事件が起きる。沖縄の怒りの高まりが後押しとなり、95年11月、大田知事(以下文中敬称略)が代理署名拒否を行う。戦後、民有地を強制的に取り上げるなどして作られた沖縄の米軍基地の土地は、政府と地主が賃貸借契約を結んで借り上げている。その使用を拒むなどして契約を結ばない場合、特措法(駐留軍用地特別措置法)に基づき、県知事が土地・物件調書への代理署名をするなどして強制的に使われるが、大田知事はそれを拒否した。

同時期、日米SACO(沖縄に関する特別委員会)が設置される。  

設置の経緯には、「政府は、沖縄県民の方々の御負担を可能な限り軽減し、国民全体で分かち合うべきであるとの考えの下、沖縄県の将来発展のため、在日米軍施設・区域の整理・統合・縮小に向けて一層の努力を払うとともに、振興策についても全力で取り組む」と記され、96年4月15日の中間報告では、「普天間を返還する。今後5~7年以内に十分な代替施設が完成した後、普天間飛行場を返還する。」とされたが、同年12月2日のSACO最終報告においては普天間基地の代替施設について、「沖縄本島の東海岸沖」が候補に上がり、翌97年1月、日米両政府により、移設先をキャンプ・シュワブ沖、すなわち名護市辺野古沖とする合意がされてしまう。しかし、平野によると、この時期、モンデール駐日大使は、「県外移設」も理解し、しかもこれは日本側で決める問題としていたという。

なお、平野によると96年10月に行われた衆議院議員総選挙の1か月前に「来る総選挙で政権交代を果たし、懸案のPKO訓練センターと沖縄米軍基地の移設を実現させよう。現地を視察したい」と当時新進党の党首だった小沢の強い要望で、大阪からヘリコプターをチャーターして、誘致予定地の山林丘陵を上空から視察したという。

しかし、総選挙で自民党は単独過半数回復する。社民・さきがけとの連立は維持するが両党は閣外協力となる。

95年12月7日、当時の社会党で自社さ連立の内閣総理大臣村山富市は大田知事を被告とする職務執行命令訴訟を提起した。96年8月28日には、最高裁判所は「知事が署名を拒否し続ければ、安全保障条約など国の義務が果たせなくなる。署名拒否で基地問題を解決するのは強制使用制度の趣旨から外れ、知事の行為は公益性を著しく害する」として県の上告を棄却する判決が確定していた。しかし、すでに使用期間が終了していた楚辺通信所内の一筆の土地に加え、97年5月には嘉手納飛行場を含むその余の12施設内の使用期間が満了することに対応するため、政府は特措法(駐留軍用地特別措置法)の改正に着手した。これにより沖縄問題をめぐって政治が大きく動く。

平野は、「米軍が基地を使用するに欠かせない重要な法律で、沖縄の人々に迷惑をかける好ましくない内容のものであった。」と述べる。実際、当時閣外協力で政権を支えてきた社民党が法改正に反対し、参議院での成立が見通せなくなった。朝鮮半島の緊張が高まった時期でもあり、橋本政権は窮地に立つことになる。

報道や平野の証言によると元総理の中曽根康弘が「沖縄問題は一緒にやれるのではないか、「秋の内閣改造で自民党執行部を一新し、保・保連合を実現したい」と3月27日ひそかに小沢に会い、橋本首相との党首会談を打診し、当時の梶山清六官房長官がシナリオを描いたという。平野によると自民党で沖縄米軍基地問題の解決にもっとも熱心に活動したのは、梶山静六内閣官房長官だったという。「特措法改正案」を成立させるためには、沖縄米軍基地問題の根本的解決が必要であること。さらに、朝鮮半島危機の中で「自社さ政権」では、日本の安全保障が確立できないので、健全な保守勢力による政党再編が必要であることで認識を共有したという。そして、97年4月2日深夜にかけ、橋本首相と小沢党首は徹底して話し合ったという。

小沢党首の主張は、
①安全保障は国の責任との認識を共有すべし。
②沖縄米軍基地の移設・縮小は法律をもって、国の責任で行うべし。
③自社さ連立政権では安全保障に国家が責任を持てない。従って連立を解消し新進党と連立の政策協議を行うなら協力する。
というものであった。

このことは毎日新聞97年4月3日夕刊にも掲載されており、新進党の党内論議では、「国内移転を促進するには『一定の法的拘束力も必要』(幹部)」ということで、「3日の衆院予算委員会の沖縄問題集中審でも新進党村井仁議員が「国内移転促進のためには基地使用にかかわる基本的な法整備が必要」と指摘していることが掲載されている。
 特筆すべきは、当時、小沢率いる新進党が、沖縄の整理・縮小に向けた抜本対策として、本土への分散・移転を前提に目標期限を示す新規立法「沖縄米軍基地縮小促進法」(仮称)を党として検討していたということだ。

辺野古の決定は国会の法律ではなく内閣の閣議決定で行われ、これが現在まで続く混迷を招いている。しかし、国政の重要事項として国民の代表たる国会において法律を作り、法に基づいて沖縄の過重な負担を軽減していくという憲法の趣旨に基づいた考えがあったということである。

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