軍事的に沖縄でなくてもよいが、本土の理解が得られないから
96年12月のSACO最終報告に県道104号線越え実弾砲兵射撃訓練が「日本本土の演習場に移転されたあとに取り止める」とされたが候補地が正式に決定される前の1996年 2 月時点で、すでに、移転検討対象とされた地域では、宮城県王城寺原・大分県日出生台両演習場周辺地域の地方議会をはじめ移転反対決議や意見書の採択が相次いでいた。
2019年2月24日に実施された県民投票の三択をめぐる同年1月の県議会会派代表者会議のなかで沖縄・自民党が「普天間飛行場の代替施設の移設について、」「どこも受け入れるところがなく」と述べたように、本土の理解が得られないという状況のなか、普天間飛行場の代替は「辺野古沖埋め立て案」が政策決定されていく。自民党本部は「沖縄振興」や「北部振興」を「アメとムチ」の関係に変節させ、麻生政権時代になって「辺野古への移設」が本格化する頃、日米安全保障体制という「御輿」に乗った買弁勢力、植民地エリート、沖縄基地マフィアなどと言われるゼネコンや政治家らが台頭し、どうせ作られるならと政治としての政策決定を放棄し、基地利権を最大化するための政策決定に関わりを深めていく。
橋本首相は新進党小沢党首との合意事項を守れず、沖縄基地の県外移設への責任を果たせかった。また約束した内閣改造(97年9月11日)や党人事を実行できず、このことに怒った梶山は官房長官を辞任したという。その直後に梶山は辺野古を訪れ、「常陸太田の我が故郷とそっくりだ。ここに基地をつくるのか」と語ったとのことである。
小沢党首や新進党の「沖縄米軍基地縮小促進法」(仮称)構想がどこまで本気だったかはわからない。しかし、橋本首相が同法の新規立法に同意し、自民党を説得し、野党にも協力を求め、国会で成立したのであれば、今日までの混迷はなかったのではないかと強く思う。沖縄が歴史的に背負わされている過重な基地負担の軽減を「国政の重要事項」として、憲法41条に基づき、国権の最高機関である国会で法律事項として制定されていれば、沖縄の米軍基地負担の軽減のための県外・国外移設の議論に伴い、日米安全保障のあり方についても国民的議論が深まり、法に基づいた公正で民主的な解決がされていたのではないか。
梶山が書簡(橋本龍太郎の意を受けて密使として政府と沖縄の間で動いたという当時国土庁事務次官下河辺淳宛に98年2月に岸本建男氏が名護市長に当選した直後に書かれたとみられる書簡)に、キャンプ・シュワブ沖以外で移設候補地を探せば「必ず本土の反対勢力が組織的に住民投票運動を起こすことが予想される」、「名護市に基地を求め続けるよりほかはないと思う」と綴ったこと。森本敏元防衛大臣が2012年12月25日閣議後会見で「西日本のどこかであれば海兵隊は機能するが政治的に許容できるところが沖縄しかない」と述べたこと。中谷元元防衛大臣が2014年12月24日防衛大臣就任会見において沖縄の米軍基地は「分散しようと思えば九州でも分散できる、理解してくれる自治体があれば移転できるが、米軍反対とかいうところが多くてできない」と述べたこと、これらは単なる予想ではなく、実際の経験に基づく具体的根拠があったのだ。
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