なぜ普天間の「高知移設案」は幻に終わったのか【中】

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再浮上した高知県西南地域への普天間飛行場移転。そして宿毛湾への那覇軍港移転

平野によると、合意事項の第3項は法律事項とはならなかったものの、「沖縄県民の負担を全国民が担うこと」、「基地の整理・縮小・移転等は、県民の意思を生かすこと」、そのために「国が最終的に責任を負う仕組みを誠意をもって整備する」という沖縄基地問題に対する「国会と政府」の基本方針を示したもので、沖縄県民の宿題である「県外移設」の実現を、小沢は党首会談で橋本首相に了承させたものと述べている。平野はこの「合意文」に関わったとき、モンデール駐日大使の情報もあり、高知のPKO訓練センターとの共同使用で、沖縄米軍基地、つまり普天間基地の高知県西南地域への移設に期待をかけたという。

実際、2009年10月28日付琉球新報の記事によると、橋本大二郎元知事は記者に対して、SACOでの普天間飛行場返還交渉当時、首相で実兄の橋本龍太郎氏との間で、高知県への在沖米軍基地移設を論議していたことを明らかにしている。

龍太郎首相と大二郎高知県知事は官邸で何度か懇談を重ねているのだ。そして、驚くことに、その議論には、普天間飛行場の移設のみならず、那覇軍港の宿毛湾港への移設も含まれていた。SACOで議論されたひとつに、那覇軍港の返還があった。那覇軍港は復帰直後の72年に返還合意されながら、25年近く実現を見ていなかった。

なお、宿毛港湾は、高知県の宿毛市と大月町にまたがる1960ヘクタールの港湾で九州への海の玄関口であり、水深が深く天然の良港で、戦前は旧日本海軍の艦隊の練習地として利用されていた。

しかしながら、大二郎知事は、那覇軍港の受け入れに理解を示しながらも、直前にあった少女暴行事件を念頭に海兵隊の受け入れは「地元説得が面倒」と拒否した。

大二郎知事は「海軍だけ移るというのなら地元説得もできるし、やる意志はあった」と、那覇軍港受け入れに前向きだったと言明した上で、普天間飛行場移設の可能性には、海兵隊員による事件発生を念頭に断ったと述べている。

同記事では、「大二郎の頭の中には、軍港移設となれば、防波堤など港湾整備も併せて進められることになり、さらには付随の施設として空港拠点の整備も進むかもしれない、との思惑も働いた。だが時期はちょうど普天間飛行場の返還が合意された直後。大二郎は普天間移設など海兵隊の受け入れは兄の前で明確に拒絶する。大二郎が海兵隊を断った理由は、やはり95年の少女暴行事件の衝撃だった。『95年の事件もあって、一般的印象として海兵隊はずっと事件を起こしている。高知県民も同じリスク(危険)を背負うと思うだろう。海軍プラス海兵隊となったときには、反対論者の説得は当初から非常に面倒だと思っていた』と拒否の理由を説明する。首相の龍太郎からの指示で検討を詰めていた防衛庁は、軍港だけでは海兵隊の本土移転は難しいと、宿毛を検討から外していくことになる」と結ぶ。

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