なぜ普天間の「高知移設案」は幻に終わったのか【下】

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大田知事はこの移設構想を知っていたのか

気になるのは、当時の大田昌秀県知事が普天間飛行場の高知県西南地域への移転の構想があったことを知っていたのだろうかということだ。

97年4月3日、大田知事は政府の特措法改正案の閣議決定を受けて、「安保が大事なら、その責任は全国民で負うべきだ。なぜ沖縄だけにしわ寄せをする形でやるのか」と怒りを表明した。

我部政明は著書「世界のなかの沖縄、沖縄のなかの日本」(世織書房、2003年)のなかで、「大田氏は普天間基地の県外移設を唱えたが、どのような方策によって実現するのか。いずれも何ら明らかにされなかった」と述べている。

同著では「(大田知事の)カリスマ性がそこを打つのが、97年4月、土地収用の法的根拠がなくとも、土地収用委員会の決裁が出るまで基地として継続使用できるとする駐留軍用地特別措置法改定の成立であった」、「96年9月には、大田氏の政府との『妥協』路線が始まる。強制収用手続きにおいて必要とされる公告縦覧代行を応諾してみせた大田氏の交渉可能な姿勢への変化は、振興策でもって迫れば、基地の受け入れ容認を消極的ながら獲得できると政府は判断したのだろう」、「国際都市形成構想などの一国二制度や振興策に関しての要求がリンク論として踏み絵でもって切り返されてきた」、「96年12月の住民投票の結果がでた後、大田氏がすぐに結論に至らなかったのは、吉元氏の後任人事だけでなく、大田氏自身の揺れにあったのではないか」、「知事選後の発言に『リンク論にやられた』との趣旨があるが、政府に脅しをかけるのに成功した自らのリンク論の危険性への自覚がなかったことを裏付けているのではないか」と述べている。

大田知事が、当時政府の側に、沖縄の米軍海兵隊を本土に移設することも含めた高知県西南地域へのPKO訓練センターの具体的な計画があったことを知っており、特措法改正の前提となった橋本・小沢の「沖縄県民の負担を全国民が担うこと」、「基地の整理・縮小・移転等は、県民の意思を生かすこと」、そのために「国が最終的に責任を負う仕組みを誠意をもって整備する」という合意が県内でも大きく報道され、その意味を知っていれば、リンク論に対して切り返すカードとして機能しなかったのだろうか。その後惨敗する知事選も含めていろいろ考えてしまう。

2014年6月14日参議院特別委員会において、平野は「土佐清水市の生まれでございます。私は、今期で引退します。12年前に出ましたときに公約したのが、私のふるさと土佐清水、四国西南地域に国連のPKO訓練センターを誘致するという公約でございました。できませんでした。しかし、ここは宿毛湾、そして国有地で3500メートルの滑走路を取れる空と海の起点でございます。私の子供のころは山本五十六元帥、それから永野修身元帥がしょっちゅう宿毛湾に入っておりました。日本は派遣を求めず、国連の下で世界の平和を維持する、その地域でございますので、どうかひとつ頭の中に官僚の皆さん入れておいてください」と述べ政界を去る。

なお、この委員会には大田も参議院議員として出席している。平野の話をどのように聞いていたのだろうか。

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