なぜ普天間の「高知移設案」は幻に終わったのか【下】

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この教訓をどう生かすべきか

1999年6月17日、政府系シンクタンクの総合研究開発機構(NIRA)は、中間報告で在沖米海兵隊の機能を北海道の苫小牧東部に移転するよう提案した。しかし、翌日から地元や北海道庁から反発があり提案は立ち消えとなる。その後も長崎移設案や馬毛島案、社民C案(県外9地域)など候補地名が上がるたび、その地域からの反発や地方議会からの反対決議が起こった。大分県議会は2010年3月10日、普天間飛行場の移設案のなかに日出生台演習場の名があがっていることを挙げ反対決議を行った。

「沖縄の過重な米軍基地の負担の軽減は賛成だけど、自分のところとなると話は別だ」というのが大方の本音なのだ。それが社会構造として沖縄の差別を固定化してきた。だからこそ、憲法41条の趣旨に基づき、沖縄が歴史的に背負わされている過重な基地負担の軽減を「国政の重要事項」として、憲法41条に基づいて国権の最高機関である国会で法律事項として制定し、普天間飛行場の県外・国外移設の議論に伴い、日米安全保障のあり方についても国民的議論を深め、法に基づいた公正で民主的な解決をすべきだったのである。

そして、代替地という土地の選定の問題ではなく、「認識」・「環境」の問題として提起することの重要性を述べている。つまり、「認識」とは軍事的に沖縄でなくてもいいということであり、「環境」とは普天間飛行場の県外・国外(無条件撤去も含む)という安全保障のあり方も含めた柔軟な議論ができる状況をいう。全国でその「認識」と「環境」が作れれば、もはや「辺野古が唯一」は瓦解するのだ。

この手続きを履践しないままでいたからこそ、本土の理解が得られないという不合理な区分で「沖縄に住む人々」と「本土に住む人々」に「自由の格差」という社会構造が出来上がってしまっている。これは、憲法14条が定める「法の下の平等、差別の禁止」に反し、沖縄の人たちの人権を侵害している問題である。自由とは、憲法13条の幸福追求権であり、憲法前文の平和的生存権などの基本的権利だ。

本稿で訴えたいのは、現知事の玉城デニーが現地で力説したように、普天間飛行場を高知県西南地域への移設するように求めるものではない。政府が言うように移転先は本当に辺野古しかないのか。沖縄に集中する基地を県外に移そうとした経緯を明らかにし、国民に必要な「気づき」にすることである。そして、平野が述べたように、基地問題は高知を含めた国民全体の問題として日米安全保障のあり方について、国民的議論を行うこと、そして安全保障に対する国、地方、個人の責任のあり方を考え直す機会にすることに尽きる。

これは翁長知事が急逝する一か月半前に、病と闘いながら、2018年6月23日慰霊の日の平和宣言で「平和を求める大きな流れの中にあっても、20年以上も前に合意した辺野古への移設が普天間飛行場問題の唯一の解決策と言えるのでしょうか。日米両政府は現行計画を見直すべきではないでしょうか。民意を顧みず工事が進められている辺野古新基地建設については、沖縄の基地負担軽減に逆行しているばかりではなく、アジアの緊張緩和の流れにも逆行していると言わざるを得ず、全く容認できるものではありません。『辺野古に新基地を造らせない』という私の決意は県民とともにあり、これからもみじんも揺らぐことはありません。   

これまで、歴代の沖縄県知事が何度も訴えてきた通り、沖縄の米軍基地問題は、日本全体の安全保障の問題であり、国民全体で負担すべきものであります。国民の皆様には、沖縄の基地の現状や日米安全保障体制のあり方について、真摯に考えていただきたいと願っています」と声を振り絞り訴えたことそのものである。

この教訓を生かすためにやるべきことは何か、具体的な手続きを示さず普天間飛行場の県外・国外移設の主張を繰り返すことだろうか。民主的な手続きを明示せず自分の住む町に基地を引き取るという運動をすることであろうか、沖縄に要らないものはどこにも要らないという主義・主張のみを訴えることだろうか。

私は、新しい提案実行委員会の責任者として、「軍事的に沖縄でなくてもよいが、本土の理解が得られないから」という不合理な区分(差別)により決定した辺野古新基地建設を止めること、普天間飛行場の県外・国外(無条件撤去も含む)を国民的議論(最終的には国会)により決定すること、仮に普天間代替施設が国内に必要だという結論になるのなら、本土でも一地域への一方的な押付けとならないよう、憲法41条、92条、95条の規定に基づき、公正で民主的な手続きにより解決することを求めている。

「沖縄県民の負担を全国民が担うこと」、「基地の整理・縮小・移転等は、県民の意思を生かすこと」、そのために「国が最終的に責任を負う仕組みを誠意をもって整備する」。

今こそ、93年4月3日橋本・小沢で特措法改正の前提とされたこの合意文書の精神に立ち返るべきではないだろうか。

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