「遺骨土砂問題」が「沖縄問題」として矮小化される状態を打破することは出来なかった
昨日5月15日、「沖縄の基地問題を考える小金井の会」によるシンポジウムの場で、具志堅さんは「今の国は、採石業者に、ウチナーンチュの心を金に換えろと言っているように思える」と口調を強くした。そして、「自分には業者の事業を止める権利はない。でも、業者の方々に、ウチナーンチュの心をお金で売らないでと、頭を下げてでもお願いしたい」と続けた。そんな具志堅さんの言葉を聞き、「沖縄復帰」から49年経過した節目の日に、このようなことを言わせてしまうヤマトの醜さを痛感せざるを得なかった。
2ヶ月間「遺骨土砂問題」に対峙する中で、私はずっと「これは人道上の問題であり、日本全体の問題である」と訴え続けた。「遺骨土砂問題」から見えてくるのは、一国内に憲法違反がまかり通る、つまり「既に戦時にある」地方が存在するということであり、そんな国の刃はいつ自分の住む地域に向けられるか判らない。「日本全体が既に戦時なのではないか?」との危機感を持って、この問題に対峙すべきだ、とまで言ってきた。
しかし、最後まで「遺骨土砂問題」が「沖縄問題」として矮小化される状態を打破することは出来なかった。
入管法・国民投票法・デジタル庁問題などに関する運動が、SNSを活用しながら、日本全体の問題意識を高めるのに成功している様子を見ると、「遺骨土砂問題」を巡る運動だけ「一人負け」だったのではないか、とすら言いたくなってくる。
遺骨土砂問題については、何か新たな法案が出された訳でもないし、表面的には沖縄内部の対立という構図を取るため、「極悪非道の国・大臣を掣肘する」という勧善懲悪のストーリーも描けない。防衛省はこの問題を沖縄防衛局と業者との個別契約の問題に押し込める答弁を続けたので、国会が論争の中心になることもなく、全国メディアの関心も引きつけられなかった。このように、「一人負け」の敗因を列挙することは容易だ。
しかし、人道上の問題、また日本社会の構造に関わる問題に当事者意識を持つために、いつも新たな法案が出されたり、英雄的・象徴的な犠牲者が出なければいけないというのはおかしい(ハンガーストライキを通じ、命懸けの問題提起を行った具志堅さんや金武さんが、何故「英雄的・象徴的存在」として全国から注目されなかったのか、も考えねばならないが)。
日本社会の構造悪を正したければ、そもそも悪法や犠牲者が生み出されるのを未然に防がなければならないし、象徴的な出来事が起こる前に持続的な問題意識と抵抗運動が育まれていなければならない。もし日本の市民にその能力がないとすれば、国民主権に基づく民主主義国家の主権者として、あまりに未熟なのではないだろうか。
そのような問題意識で直近数ヶ月の社会運動を再点検すると、入管法反対運動なども、決して「成功事例」と言ってはいけないように思える。あたかも「成功事例」に見える社会運動は、「現在進行形で悪法や愚策を出している悪代官を成敗する」ような、いわば一点発火型の運動だった。
オンラインでの署名やSNSデモで、「抗議の声」の頭数を稼ぐこと自体が運動のエネルギーにも、また目的にもなっていた。「ランナーズハイ」を煽り立てた運動ではあったものの、それに加わった人の中で、問題意識・当事者意識を維持出来る人がどれくらいいるかは未知数だろう。
国会の閉会も迫る中、国の蛮行もどんどん見えづらくなっていくと思う。この間のあらゆる運動が「暖まりやすく冷めやすい」ものでしかなかったとしたら、一見「成功事例」に見える運動も、日本社会の構造悪を正す実効性は持たなかったと評価せざるを得ないだろう。