5月14日の知事最終判断と、「沖縄復帰」の日に寄せて

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時の政権を糾弾することを自己目的化し、日本社会の構造変革と民主主義の実践の定着を実現出来なかった60年代・70年代の社会運動の二の舞になってしまうのではないか?

「遺骨土砂問題」への日本全体の関心の低さは、今の社会運動全般の脆弱性を映し出す鏡でもあるのだ。

その脆弱性について、入管法反対運動を引き合いに出して考えてみたい。

今回は「ウィシュマさん対入管・法務省・菅政権」という、判りやすい構図だったからこそ、公憤を煽りやすかった。コロナやオリンピック対応を巡る国の愚策もあり、「現政権は人の命を悪気なく犠牲にする」との怒りが国全体で共有されていたことも、運動を加速させる力になった。

しかし、この問題について、真の当事者意識を育めた人はどれくらいいただろうか? ただ時の政権を責め立てるだけに終始した人も多かったのではないだろうか?

入管法問題は、間違えなく日本社会の構造が作り出した問題である。そして、その構造を支えているのは、主権者である国民一人一人だ。そうであれば、あらゆる日本国民は、ウィシュマさんの死に対し、(間接的ではあれ)「加害者」としての当事者性を持つはずである。しかし、そのような当事者意識を持ち、自らの責任を追及する痛みに耐えながら入管法反対運動を行った人は、どれくらいいたのだろうか?

ウィシュマさんは最初の犠牲者ではない。彼女の背後には、日本に入ってくる外国人の方々を、都合の良い労働力(もしくは、潜在的なスパイ?)としてしか見ない日本社会の犠牲にされた、多くの外国人の方々がいた。そんな方々の犠牲に目を向けてこなかった自分自身の人権感覚の欠如を、運動のに担い手は十分に自己批判出来ただろうか?

入管や現政権の人権侵害を糾弾するのは容易だが、日本国憲法の主語は「国民」であり、普遍的な「人・人民そのもの」ではない。つまり、私たちの憲法は、外国籍を持つ人々を人権保障の対象として見做していないのである。「護憲派」「人権派」を名乗る人々に、そのことへの問題意識をもてていた人はどれくらいいただろうか?

グローバル化の進行と、少子高齢化に伴う労働力不足により、外国出身の方々と共生する未来は避けられない。そう考えると、国籍にかかわらず人権を保障する社会の構造を早急に作り出さねばならないし、その為の運動が「現国会期間中での入管法改悪を止める」以上の持続的努力を要するのは明らかだ。

自戒も込めて言うが、ランナーズハイに陥っている人たちは、一度自分に、それだけの努力に耐えうる覚悟と批判的思考力があるか、問い直すべきであるように思う。それをしなければ、時の政権を糾弾することを自己目的化し、日本社会の構造変革と民主主義の実践の定着を実現出来なかった60年代・70年代の社会運動の二の舞になってしまうのではないか? 私はそれが不安だ。

逆に、この間様々な社会問題に取り組んできた市民たちが、「あれほどの戦争体験にもかかわらず、普遍的人権を尊重する社会を作るのに失敗し続けてきた日本社会の構造の担い手」としての自分の責任を問い直したとすれば、「遺骨土砂問題」に継続的な当事者意識を持ってくれる人も自然と増えると思う。

「遺骨土砂問題」を巡っては、4月15日に沖縄県議会が「沖縄戦戦没者の遺骨等を含む土砂を埋立てに使用しないよう求める意見書」を全会一致で可決したほか、同様の意見書が10を越える市町村議会で採択されている。民主主義の原則に則り、明らかな民意が示されているにもかかわらず、県知事は中止命令を下せなかったのである。

これは、国による沖縄分断政策が、沖縄の方々から市民として政治に参加する権利を奪っていることを示す。ハンナ・アーレントは、「政治的存在者たりうる能力」は「アリストテレス以来およそ人間であることの徴とされてきた」ものであり、その喪失は「人間生活一般の本質的特徴の喪失」だと主張した。要するに、今の国は、ウチナーンチュの方々を人間扱いしていないのである。

そう考えると、入管法問題と「遺骨土砂問題」とが重なって見えてくる。強制収容所と化した入管の非人道性が今の今まで社会問題化しなかった背景には、日本社会が在留外国人に参政権を与えないことをはじめ、外国人の方々の「政治的存在者」としての人格を認めてこなかったことがある。

政治参加を許された国民と、そうでない他者とを線引きする日本社会の構造悪を見抜ければ、入管法と「遺骨土砂問題」との繋がりのみならず、多数の社会問題の関連性が見えてくるのではないだろうか。

「遺骨土砂問題」に関する運動は、これからますます険しい道のりに入っていく。これまでは、差し当たり5月14日というタイムリミットがあったが、今後運動を煽る火種はますます少なくなっていくかもしれない。

具志堅さんは、6月23日の「沖縄慰霊の日」や、8月15日にあわせてハンガーストライキをすると宣言されたが、ウチナーンチュの方々が命をかけることを前提にした運動の流れは作るべきではない。

この問題の根本は、数多の憲法違反を犯しながら辺野古新基地建設を強行する国にある。対する国は沖縄分断政策を続けるに違いない。特にこの先、沖縄県は、県による「超法規的な権力の乱用」「著しい人権侵害と営業妨害」を糾弾する県内業者と、人道とウチナーンチュの心に基づいた毅然とした対応を迫る具志堅さんらウチナーンチュの方々との両方と対峙しなければならなくなるだろう。「国が根本悪」という大前提を忘れれば、まるで沖縄県内が三つ巴の対立状態にあるかのような印象を持ってしまうことになりかねない。

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