有事の覚悟を迫る本土 復帰50年の現実

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萩原真美は『つながる沖縄近現代史』で、明治期に沖縄県が設置されて以来の課題は、沖縄人を日本の政策に従順な民、つまり日本人らしい「日本人」にすることにあったと説く。そのために必要とされたのが標準語の習得と皇民化教育だ。沖縄県には他府県から派遣された「日本人」が県知事をはじめとする支配的地位に就き、沖縄人を従わせ、日本的な言語風俗・生活習慣を、県全体に普及させる政策を行った。それを担う場が学校だった。その証拠に、当時の沖縄で学校は「大和屋(やまとや)」と呼ばれていた。

沖縄における近現代の学校教育の内実を萩原は「沖縄の人々が本心から望んだというよりは、いかにその時代を生き抜くかという観点から定められた」と総括する。

高江洲昌哉は同著で、遅れて日本社会に包摂された沖縄の人々は「貶視」からの解放要求もあり、「より過剰に愛国心が鼓舞されていた」と指摘する。その上で、個人の力を全体に奉仕する「滅私奉公」の精神は克服されたのだろうか、と問いかける。

戦争は単なる国家の「好戦性」によって引き起こされるものではない。戦争遂行には、「自分たちが正しい」、「そのために全員が協力しなければならない」という国民の自発的な態度と、それに異を唱える者を排除する「同調圧力」も必要不可欠となるからだ。「聖戦」下の戦争協力を「精神の奴隷」と反省した地点から考えると、今は過去の「狂態」(または「真面目さ」)から断絶したと断言できない地点で右往左往している、との高江洲の考察は鋭い。

「復帰」から50年。沖縄は「戦時」から解放されたといえるだろうか。音楽家の照屋夏樹は『N27』(9号)で、沖縄が日本に復帰して失ったものの中で最も大きな代償は「言葉」だと唱える。中でも、沖縄民謡の歌詞などにも使われる「世(ユー)」という言葉に、往古と現在をつなぐ沖縄の重要な概念や精神性を見出せるという。こうした沖縄独特の豊かな言葉が失われると、音楽のリズムや旋律を変えてしまうのと同様に、人々が大事にしてきた感性も取り戻せなくなる未来を照屋は案じる。

5月9日から官邸前などでハンガーストライキを行った元山仁士郎は「沖縄は日本に復帰して良かったのか。むしろ良くなかったのでは、と言わざるを得ない」と吐露した。「専守防衛」は風前の灯火となり、軍事拠点としての沖縄に利用価値を見出す声が勢いを増す今、視線を逆向きにして問いたい。沖縄から見える日本は、身を挺してもしがみつく価値のある「祖国」と映っているだろうか。

【本稿は5月22日付の毎日新聞記事の転載です】

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