「台湾有事」は日本有事なのか~犠牲を最小限にする選択肢を

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「国家」を主に据えることで見えなくなるものがある。

戦時のラジオ局に「記者」は存在しなかった。自分たちで取材するのではなく、「声の外交国策」として政府や軍のメッセージをそのまま報じていたからだ。硫黄島で米軍と死闘を続ける日本軍兵士に向けて、東京から短波で送られる「激励放送」は日本放送協会沖縄放送局も中継放送していた。死に直面した将兵たちに軍幹部の激励や吹奏楽、歌などを流す放送が戦地で顰蹙をかっていた事実は、「見殺しにして最後は歌か」といった数少ない生き残り兵士の証言からもうかがい知ることができる。この放送を沖縄戦でブーメランのように受け取ることになった沖縄放送局長の内面に迫ったのが『沖縄 戦火の放送局』だ。彼は戦後つづった手記で自身を「馬鹿者」だった、と振り返る。その意味を著者の渡辺考は「大きな渦に巻き込まれ方向を見失った自分自身に対して向けた深い悔恨の言葉」と読み解く。

戦後の日本社会は「二度と戦争を繰り返してはいけない」という倫理的な戒めがよりどころだった。一方で「無謀な戦争」に進んだ判断ミスや不合理性を直視してきたとは言い難い。過ちを繰り返さないための論点を見定める必要がある。

自衛隊元陸将の松村五郎は「JBpress」で、台湾有事の局面で日本が選択可能な防衛政策の幅を提示している。「日米抑止重視案」と「日本防衛重視案」の二つだ。前者の欠点は抑止が崩れた時、「第1列島線が、激烈な各種ミサイル応酬の場になることは、米国にとっては織り込み済み」で、今後、日本が反撃能力を導入すると、「抑止効果が高まる利点」と「日本が戦場になる欠点」はさらに先鋭化する。一方、後者の場合、「当初の段階では、台湾侵攻が日本への直接攻撃を伴わない可能性はかなり高い」と見込む。

日本の台湾支援は「直接物理的な戦闘」以外にも避難民の受け入れなどさまざまある。日本防衛重視案を採用しても、台湾や米軍への支援を平素から準備し訓練することで抑止力や日米同盟の実効性維持は担保できる、と松村は説く。

中国への警戒は必要だ。台湾有事の抑止に努めなければいけない。だが、政治も報道も世論も、亡くなった元首相の「台湾有事は日本有事」というフレーズに縛られ、国民の被害を最小限に抑える選択肢をあらかじめ排除されているのだとしたらあまりに不幸だ。

【本稿は8月27日付毎日新聞記事を転載しました】

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