『ひずみの構造』『決断』
1996年の普天間返還合意以来、日本政府がどのような経済振興策をてこに辺野古移設を進めようとしてきたのかについては、沖縄地元紙が詳細な取材と検証を行ってきた。ここからは、主にそうした取材成果を紹介しながら、名護市に対する政府の振興策を振り返りたい。
1997年末、比嘉鉄也名護市長は橋本龍太郎内閣の求めに応じて、直前の市民投票の結果に反した、普天間飛行場のキャンプ・シュワブ沖への移設受け入れを表明後、辞任した。琉球新報社『ひずみの構造―基地と沖縄経済』(同社、2012年)によれば、比嘉氏は首相官邸で、「遺言は北部の振興だ」と、移設の条件に政府の沖縄北部振興策を強く求めた。
北部地域振興協議会『決断―普天間飛行場代替施設問題10年史』(普天間基地移設10年史出版委員会、2008年)は、「琉球王朝以来、(那覇を中心とする南部との)格差に苦しみ、悩んできた」北部にとって、基地と引き換えの北部振興は「千載一遇」の機会だったと語っている。
移設受け入れを表明した名護市には、日米特別行動委員会(SACO)交付金、沖縄米軍基地所在市町村活性化特別事業(島田懇談会事業)、北部振興策などの名称で、政府の事業費が次々と投入された。こうした振興予算は、ネオパークオキナワの事業再生、名桜大学の公立化や看護学科設置、観光施設や学校体育館の建設、救急ヘリの運航再開などに使われた。
名護市幹部は、「基地問題がなければ自前でこれだけの箱物を造ることは絶対にできなかった。北部振興策などで名護にお金が落ちたおかげだ」と述懐する。
『国策のまちおこし』
これらの政府振興金は、補助率が100%近い上に、国庫補助金よりも自由度が高く、名護市は財政の約2~3割を基地関連収入に依存するようになっていく。だが、小泉純一郎内閣の「三位一体の改革」で地方交付税が減額される中、名護市は振興策のために地方債の借入額を増やしていった。この間、名護市の完全失業率も10%台に上昇して県平均を上回り、生活保護率も悪化した(『ひずみの構造』)。
渡辺豪『国策のまちおこし―嘉手納からの報告』(凱風社、2009年)は、政府の沖縄経済振興策が、地元全体ではなく一部の業者の利益にしかならなかったこと、「箱物」の維持管理や運営が、自治体の財政を圧迫したことなどを指摘する。上述した、行政予算の振興金依存に加えて、市民がまちづくりを「行政まかせ」にするムードをも助長したという。
定年まで名護市職員をつとめあげた稲嶺氏は、市議たちに請われて出馬した2010年の名護市長選で「再編交付金に頼らない街づくり」を掲げ、現職をやぶって初当選した。市政ひと筋で歩んできた稲嶺氏は、国の振興予算がいかに名護市を脆弱化させたか痛感していた。その思いを一層強めたのが、小泉内閣の米軍再編計画だった。