「中道勢力」結集の軸となった県民投票

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オール沖縄の瓦解

 

20182月末、翁長雄志沖縄県知事を支える保革連合「オール沖縄会議」から、県内でスーパーなどを展開する金秀(かねひで)グループの呉屋守将(ごや・もりまさ)会長が脱退したことは、大きな衝撃を与えた。しかも、続けて4月初頭には、沖縄観光コンベンションビューローの平良朝敬(たいら・ちょうけい)会長がオーナーを務める、かりゆしグループもオール沖縄から脱退すると発表した。

呉屋氏もかりゆしグループも、脱退の主な理由として、オール沖縄の「革新色が強くなった」ことと、普天間飛行場の辺野古移設の賛否を問う県民投票を実施すべきだと主張したが、「自分たちを交えた議論を経ずに却下された」ことを挙げた。

県民投票という選択肢が、オール沖縄内で議論することなく否定された背景には、オール沖縄に参加している労働組合などが、県民投票への強いトラウマを持っていることがある。

住民投票の歴史は新しく、新潟で1996年に原発建設をめぐって行われたのが、日本最初の住民投票だ。同じ年に沖縄で実施された県民投票では、労働組合が中心となって署名を集めた結果、県民投票が実現し、全有権者の過半数が日米地位協定見直し・基地縮小に賛成している。にもかかわらず、大田昌秀知事は日本政府に裁判で負けたため、県民投票の直後に軍用地の代理署名を受諾したのだった。

 

座り込み以外の闘い方

 

県民投票という選択肢を、最初に検討し始めたのは翁長県政である。沖縄県は2017年初頭、知事権限で県民投票を実施する可能性を探って、各市町村に水面下で協力を求めたが、うまく協力をとりつけられなかったといわれる。

そのため、沖縄県は2017年春、地元紙を使って県民投票の観測気球を上げた。また同じ頃、住民投票に詳しい武田真一郎・成蹊大学教授に対して、市民中心で県民投票の機運を高めるよう依頼したとされる。

武田教授の協力のもと、実際に県民投票に向けて動き出したのは、元SEALDS RYUKYUのメンバーで20代半ばの元山仁士郎氏だ。オール沖縄やSEALDS RYUKYUのメンバーの多くが反対する中で、元山氏が2018416日に立ち上げた、「『辺野古』県民投票の会」には、ある特色がある。それは、会の中心メンバーの多くが、普天間飛行場の移設先であるキャンプ・シュワブのゲート前での座り込みを、ほとんど経験していないことだ。

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