「妄想の中の沖縄」が拡散される背景

この記事の執筆者

忘れられない光景がある。

 8年前の知事選。「オール沖縄」を唱えた故翁長雄志知事の当選が決まった瞬間、島じゅうが地響きしているかのような熱気に包まれていた。その現場に私は、いた。

このとき、沖縄は可哀想だ、と私に告げた防衛官僚がいた。「国は辺野古で進める。もうどうにもならないんだ」と。

 その後、どうにもならないのは政府のほうなのだ、とわかった。

「実現不可能」とまでは言い切らないにしても、大浦湾の深い海底の軟弱地盤を埋め立てる工事には膨大な時間とコストがかかる。いつ完成するかもわからない、この新たな米軍基地に注がれる巨額の工費はすべて日本国民の税金で賄われる。

 そんな政権を、選挙のたびに支え続ける日本の有権者は可哀想だ、と私は思う。

ネット空間に「妄想の中の沖縄」

今回の知事選で玉城デニー知事を指して、「沖縄を中国の属国にしたいデニー候補。ウイグル・モンゴル・チベットのように日本民族も強制収容所に入れられ民族浄化(虐殺)されます」とツイッターに投稿した大阪府内の市議がいたそうだ。公選法違反(虚偽事項公表)に当たるとして、市民団体が9月5日、警察に告発状を出した、との記事が出ていた。

 こうした投稿は一つの定型で、もう何年も前から、「妄想の中の沖縄」がネット空間を跋扈している。故翁長前知事に対しても、かつて同様の言説が浴びせられた。それには、おびただしい数のリツイートや「いいね」がつく。どんなシステムやネットワークがあるのかはよくわからない。

 これが沖縄世論を映しているのなら、翁長知事も玉城知事も誕生していなかったはずだ。おそらくは「本土」のある一団の「日本を守る」という“正義感”が引き金になっている。そして、圧倒的多数の国民は、グロテスクともいえる攻撃的な言葉が飛び交うこの議論にかかわりたくない、と考えている。結果的に、バランスのあるまっとうな全国世論の視界から「沖縄」ははじかれていったように感じている。

 玉城知事も翁長前知事も、「反米」でも「反基地」でも「反安保」でもない。そんな単純なスタンスで沖縄県知事は務まらない。沖縄の生活者のために、沖縄にあまりにも多く集中している基地をせめてもう少し減らしてもらえないか、安心して暮らせる空間を確保してもらえないか。地方自治体の長として、そんな当たり前の要求をしている。

この記事の執筆者