沖縄は何にあらがってきたのか~主体なき民主主義に未来はあるのか

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資本主義社会の中での「闘い」とは何をどう認識することによって生じるのか。これは現代人の「生き方」に連なる問題でもある。戦後の沖縄社会を通じてその分岐点を探ったのが古波藏契著『ポスト島ぐるみの沖縄戦後史』だ。

沖縄の超党派的な抵抗のスタイルとして、「島ぐるみ」という言葉が節目ごとに使われる。その原点は沖縄住民が米軍の土地接収に抵抗した1950年代の「島ぐるみ闘争」だ。その後の「復帰運動」は島ぐるみ闘争の発展形との見方があるが、同書は二つの運動を厳密に区別する。最も端的な違いは米国の対応の差だという。米国は復帰運動が「第二の島ぐるみ闘争」へ発展するのを警戒し、沖縄社会を「健全な近代化」に導く政策へシフトした。島ぐるみ闘争時の沖縄住民の熱狂的な結束力の背景にあった共同体の伝統的価値観を崩し、米国の中産階級の生活意識(マイホーム主義)を根付かせることが不可欠と考えたのだ。このため復帰運動は弾圧せず穏健に育成するスタンスで臨んだ。それが革新系の地元リーダーの下での「基地を維持したままの施政権返還」として実を結ぶ。

その媒介には「人工栄養の経済」が用いられた。外資導入などによる「沖縄版高度成長」の維持、復帰後には日本政府による「沖縄振興体制」という形で注がれた果実は、住民の一体感と共同性を徐々に解体し、個々人が「勝ち組」になるべく努力して自分の身を守ることに専心する心性を培っていく。そうした社会では周囲の人々は連帯すべき同胞ではなく、出し抜くべき競争相手にしか見えなくなる。この流れは復帰後の沖縄で加速する。住民同士のつながりに関する県民意識調査では、常に過去に比べて弱まったと感じる割合が最大、強まったと感じる割合は最小を占める。

沖縄に浸透したマイホーム主義に潜む利己的な側面。「それを心の底から良しとする人間はほとんどいないにもかかわらず、いつの間にかあらがい難い空気のように浸透してしまった」と嘆く古波藏。だが、過去への回帰を唱えるわけではない。「当然のように身に付けてきた価値観・世界観」を疑うことで眼前の課題と向き合う術を模索しているように映る。

マイホーム主義の伝播は冷戦期の米国の世界戦略であり、もちろん日本(本土)も例外ではない。格差と不寛容さが増す便利で「自由」な社会に息苦しさを感じながらも、適応するしかないと考える自分がいる。国際秩序も常識もあっけなく変わる世界で置き去りにされる不安と、守るべき価値を見失う恐れの間で右往左往するしかないのか。

【本稿は2023年12月24日付毎日新聞記事を転載しました】

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