前回の論考(「沖縄の問題」ではなく「日本全体の問題」として考える https://okiron.net/politics/311/)では「政治空間」という言葉を用いて沖縄と本土の溝を考察したが、今回は少し別の角度からそれを掘り下げてみたい。今回のテーマは、戦後70年におよぶ沖縄と本土の関係を振り返ってみて、その両者を政治的に結びつけたものは一体何だったのか、という問題である。あらかじめ結論を先に言えば、私はそれは、「ナショナリズム」と「イデオロギー」であったと考えている。つまり、同じネーション(国民、民族)としての認識に基づく連帯と、同じイデオロギーを基盤とした政党間連携の2つが、両者を政治的に結びつけた主たるものであった、というのが私の見解である。
日本復帰の駆動力になったものは
例えば、アメリカ統治下にあった沖縄で最大の課題は日本復帰であったが、そこに向けて沖縄の人々を動かしていったものは、「祖国」日本に復帰するというナショナリズムであった。また本土側も、「沖縄を取り戻す」というナショナリズムを基盤にしてこの課題に取り組んだのである。
そして、このナショナリズムを土台にして両者のあいだには、同じイデオロギーを基盤とする政党間の連携もあった。すなわち、沖縄の自民党は本土の自民党と連携し、一方の沖縄の革新勢力は本土の革新勢力と連携して、この問題に取り組んだのである。かくして、このナショナリズムとイデオロギーを駆動力にして、1972年5月、沖縄の日本復帰は実現するのであった。
日本復帰を果たした沖縄にとって次なる大きな課題は、27年間におよぶアメリカ統治によって開いた本土との格差是正である。これは、同じ国民としての平等を求めるものであり、言ってみれば、ナショナリズムの論理を前提とするものであった。この課題に沖縄県と連携して取り組んだのは政府・自民党であり、なかでも沖縄返還を成し遂げた佐藤栄作の流れを汲む派閥、すなわち田中派→竹下派(経世会)であった。
基地負担の平等を求めて
冷戦終結後の1990年代に入ると、これまで政府・自民党が正面から向き合うことを避けてきた米軍基地の整理縮小が、大きな課題として浮上してくることになる。1995年9月の少女暴行事件をきっかけに沖縄ではかつてないほどの反基地感情が高まるが、そうした状況の中で沖縄県知事の大田昌秀は、次のような論理でもって基地の整理縮小を要求した。大田はいう。「安保条約が日本にとって、重要だと言うのであれば、その責任と負担は全国民が引き受けるべきではないか」。つまり、同じ日本国民として基地負担の平等を訴えたわけである。
この沖縄側の要求を受けて基地の整理縮小に取り組んだのは、自社連立政権であった。いわゆる55年体制下でそれぞれの方法で沖縄問題に深くかかわってきた両党が、しかも自民党の最大派閥であった経世会と野党第一党であった社会党が、手をとり合ってこの課題に向き合ったのである。戦後政治の集約点、いや終着点がここにあるといえよう。
しかし、その自社連立政権にしても、戦後日本の安全保障体制の根幹にかかわるこの基地問題を、思うように解決することはできなかった。沖縄側の強く望んでいた普天間基地の返還をアメリカ側から勝ち取ったとはいえ、その代替施設を沖縄県内につくるというのが返還条件だったからである。以後、この代替施設建設をめぐって政府と沖縄県の関係はこじれにこじれ、それから20年を経た今日では、「戦後レジームからの脱却」を図ろうとする安倍政権と、そこに沖縄が入っているのかを問い質す翁長県政とが、真っ向から対立する状況となっているのである。