日本政府/橋本龍太郎首相
まずは日本政府、とくに橋本首相である。普天間返還合意が打ち出される前の時点において、橋本首相は外交安全保障をめぐる二つの重大問題に苦慮していた。一つは沖縄県の大田昌秀知事による軍用地の強制使用に関わる代理署名の拒否、そしてもう一つはガイドライン法の整備である。結論を先取りして言うならば、普天間返還合意は橋本にとって、この苦境から脱するための「一石二鳥」の妙手であった。
まず前者の代理署名拒否である。旧日本軍の基地が転用されたケースが多い(=国有地)本土と異なり、1950年代を中心に農地の強制接収によって米軍基地が拡張された沖縄では、民有地が多くを占める。その中で借り上げ契約を拒否する地主については、本土復帰後に米軍用地特措法が適用され、知事が代理署名をすることによって、軍用地としての強制的な使用を可能にした。
大田は、この代理署名を拒否するという非常手段に訴えたのである。その背後には、冷戦後においても沖縄の米軍基地が、そのまま固定化されかねないことに対する危機感があった。そして1995年秋に発生した少女暴行事件に伴う県民の憤りが、その決断を支えた。
1996年1月に村山富市から首相の座を引き継いだ橋本にとって、それは近日中に沖縄の米軍基地の各所で借り上げ契約の期限が切れ、基地が不法占拠状態に陥ることを意味した。米軍用地特措法を改正し、知事から代理署名の権限を取り上げるという選択肢もあったが、当時は自民、社民、新党さきがけの三党連立政権である。改正には特に社民党が猛反発することは明らかで、連立の瓦解に繋がりかねなかった。
この行き詰まりを一変させたのが、電撃的な普天間返還合意の発表であった。橋本は自らリークしたと見られる『日本経済新聞』の「スクープ」を受ける形をとって急遽、返還合意を発表し、大田に電話して協力を求めた。突然のことに戸惑う大田は「協力といっても、できることと、できないことがあります」と答えるのが精一杯であった。