普天間・辺野古問題はここに来て、翁長雄志知事の入院や「オール沖縄」の揺らぎに関心が集まっている。その一方で安倍晋三政権にも不安定化の兆しが見え、北朝鮮をめぐる対話の動きなど、東アジア国際情勢が大きく動く気配もある。流動的な情勢の中にあればこそ、問題の本質を見極めることが肝要である。本稿では普天間返還合意をめぐる「損得勘定」という観点から、この問題の本質を探る。
22年という月日の重さ
今月4月は、あの出来事から22年目である。22年前の1996年4月12日、日米両政府は普天間基地の返還で合意したことを電撃的に発表した。その年に生まれた赤ん坊が、進学していればもう大学を卒業するのだから、いかにも長い月日が経ったものである。その一方で、この四半世紀近い間、沖縄がどれほど普天間・辺野古問題に翻弄されたか、その重さを改めて強く感じざるを得ない。
翁長雄志知事の入院や安倍晋三政権の揺らぎ、そして国際情勢に目を向ければ北朝鮮をめぐる対話の気運など、普天間・辺野古問題に関わる報道は、風雲急を告げるかのようである。
今日、明日、そして半年後と、現状分析と今後の展開に多くを費やすのはジャーナリズムの習性であり、そして責務でもあろう。その一方で、時間が経つことによって事の真相、問題の本質が浮かび上がって来るということもある。そのための手立てとして、本稿では22年前の返還合意について、当事者それぞれにとっての「損得勘定」という、少々あけすけな観点から再考してみたい。そこからこの問題の本質が浮かび上がって来るように思われるからである。
22年前の普天間返還合意は、沖縄にとっての重大事であったというだけでなく、現代日本外交(あるいは「平成の外交」といってもよかろうが)の歴史を書こうとすれば、間違いなく最も大きな出来事の一つとして挙げられるであろう。
「損得勘定」から見てみれば
だが、その評価は定まらない。橋本龍太郎首相による果敢な決断がもたらした劇的な外交成果なのか、あるいは確固たる見通しがないまま功名心に駆られ、結果として沖縄基地問題という難題を一層、混迷させることになったのか。光の当て方によって、まったく異なる意味を持つことが、普天間返還合意の評価を難しくしている。
それに加えて、海上ヘリポート案から埋め立て、軍民共用や15年の期限付き案とその破棄、そして鳩山由紀夫政権下における「最低でも県外」から辺野古現行案への回帰と、その後の経緯の目まぐるしい変転が、この問題をさらに分かりにくいものにしている。
この分かりにくさ、面倒さにしびれを切らし、あるいは嫌気を起こして「いろいろあったかもしれないが、ここまで来たのだから早く問題を片付け、すっきりさせたい、終わりにしたい」という選択に手が伸びる気持ちもよく分かる。だが、分かりにくいからといって蓋をすれば、それが後日、思わぬ落とし穴であったということもある。今一度、頭の整理をしておきたい。
以下では、「損得勘定」を軸として、22年前の普天間返還合意を整理してみる。果たしてこの合意をめぐって、当事者、当事国間にどのようなプラスとマイナスの利害があったのか。そしてそれぞれに、何を獲得し、何を譲ることになったのか。日本政府、沖縄、そしてアメリカと、順番に見ていこう。