「戦後史」の外にあった沖縄
このように日本の戦後史を代表する人物を挙げてみたとき、果たして日本の戦後史に沖縄は含まれていたのかという疑問がわく。「経済大国、平和国家」の吉田路線も、高度成長を謳歌した庶民の隆盛も、米軍統治下の沖縄には無縁であったし、むしろ憲法9条と日米安保を両立させるために狭隘な島に広大な米軍基地が築かれることになった。
その結果として復帰前の沖縄は、「土地が自分たちのものでなく、法も自分たちで決められず、島からは自由に出られない。まさに異民族が支配する監獄だった」(我部政男元琉球大学教授・山梨学院大学教授)。
当然ながら、沖縄戦後史を象徴する人物も本土とは異なる色合いを帯びる。政治家という範疇でいえば、最近、映画化されて再び脚光を浴びることになった瀬長亀次郎(那覇市長などを歴任)、本土復帰の「顔」となった屋良朝苗(琉球政府主席、県知事)、1980年代を中心に保守の「ドン」として存在感を放った西銘順治(県知事)、米軍基地の強制使用に関わる代理署名拒否に踏み込んだ大田昌秀(県知事)などが挙げられるであろう。これから沖縄現代史が描かれるとき、翁長雄志知事がそこに連なることは間違いあるまい。
瀬長は1950年代、「銃剣とブルドーザー」による米軍の強制的な土地接収に激しく抵抗し、屋良は復帰を果たしたものの広大な基地が残ることに苦悩した。そして大田は、1995年秋の少女暴行事件や代理署名拒否を受けて電撃的な普天間基地返還を打ち出した橋本龍太郎首相に対して、協力と躊躇の狭間で揺れた。また保守の西銘にしても、沖縄の基地を日米安保の要だと位置付けながらも、「(本土では沖縄に)巨大な米軍基地が存在することすら、何人が知っているか。その負担の重さを国民は分かってほしい」と漏らした。
翁長知事が担ったもの
これらの人物はいずれも沖縄の指導者として、他県の首長には見られないような重い課題に向き合うことになった。だが、その中にあっても、翁長知事は自らの政治的使命に殉じることを選んだという点において、後世にひときわ強い印象を残すことになるだろう。その政治的使命とは、自民党出身の政治家として日米安保の重要性は認識しつつも、県内における大規模な新基地建設は容認できないという「一線」であった。
本土ではともすると、過激で急進的であるかのような印象を持たれた翁長知事であったが、日米安保そのものの否定や全ての基地撤去ではなく、過重な基地の負担を抱える沖縄に、これ以上の基地建設は受け入れがたいという主張は、しごく穏当なものであったといえよう。それゆえに、基地をめぐって保革が対立しがちな沖縄において、翁長氏は広範な支持を集めて知事に就いたのであった。
翁長知事の力の源泉は、政治家としての言葉の力であった。上記の政治的使命を、「自ら奪っておいて、それが老朽化したから、また沖縄県で(新基地を)差し出せというのは、これは日本政治の堕落ではないか」といった鋭利な言葉で訴え、一方で県内に向けては、「イデオロギーよりアイデンティティー」を掲げて基地をめぐる党派対立を克服しようとした。