日米安保条約の本質は
しかしそうはいっても、その「日米同盟」の基盤となる日米安保条約の本質は何かということは、やはり考える必要がある。私の理解では、かつて旧条約の作成に携わった外務省の西村熊雄が述べているように、その本質は「物と人との協力」にあると考える。すなわち、日本がアメリカに基地(物)を提供し、アメリカは日本に軍隊(人)を提供する、言い換えればアメリカに基地を提供することと引き換えにアメリカに守ってもらう、というのが同条約の本質だと考えるのである。
このように捉えると、沖縄が負っている過重な基地負担は、直接的には日米安保条約の問題であり、もっと言えば国の安全保障のあり方自体に関わる問題であり、ひいては「国のかたち」そのものに関わる根本的な問題だといえる。したがって、これは決して「沖縄の問題」でも「沖縄だけの問題」でもなく、むしろ沖縄も含めた「日本全体の問題」だということがわかる。しかし今回の衆議院選挙ひとつとってみても、この沖縄の過重負担の問題が全国的な争点になることはなく、「沖縄の問題」として矮小化されているのが、今の状況なのである。
「国のかたち」をどう考えていくか
よって、現在の「基地の島」としての沖縄の姿に戦後日本のひとつの側面が映し出されているという認識のもと、今後の「国のかたち」を国民一人ひとりがどう考えるのか、という問題として再設定し、そこから議論を組み立てていく必要があるのではないか。もっとも、沖縄の過重負担の問題は戦後日本の矛盾を凝縮的に表わしており、これを知的に解いていくことは極めて困難な作業である。しかし逆にそうであるからこそ、この問題を皆が深く考えていくなかで、「日米同盟」論でも「日米従属」論でもない、それを超えた何か新しい構想を生み出していけるのではないだろうか。
もっとも、以上のような議論は「保守的空間」と「革新的空間」、「日米同盟」論と「日米従属」論など、本土と沖縄、あるいは中央政治と沖縄政治という2項対立的な枠組みを強調しすぎているようにみえるかもしれない。また単純化しすぎているようにもみえるかもしれない。しかしそうすることによって見えてくる問題もあるだろうし、また私の意図するところは、この2項対立的な枠組みを分解し、沖縄の過重な基地負担を解決できなかった戦後日本の安全保障体制をいかに再構築していくか、また本土と沖縄の政治空間をどう再構成していくか、という点にある。
よって「オキロン」では、今後このような観点から様々なことを論じてみたい。