翁長雄志はいかにして「オール沖縄」知事となったか

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8・11県民大会

 

台風が迫る2018811日、那覇市の奥武山公園で、オール沖縄会議主催の県民大会が行われた。朝は青空が広がっていたが、午前11時に始まった大会の冒頭、8日に急逝した翁長雄志知事への黙とうを参加者全員で捧げた直後から、激しい雨が降り出す。公園周辺の道路には何台もの街宣車が終結し、大音量で軍歌を流しながら参加者に罵詈雑言を浴びせていた。だが、雨の中増え続ける参加者は7万人に達し、会場に入りきらない人間を収容するために、幼い子供から高齢者までが傘をたたんで身を寄せ合い、一時間以上もずぶ濡れで立つ姿があちこちで見られた。

主催者の予想の倍を超える参加者は、201411月の沖縄知事選で「辺野古新基地建設阻止」を訴え、現職の仲井眞弘多氏に約10万票の大差をつけて当選した翁長知事の死を悼んで集まった。珍しいことに、幅広い年代の県民が参加したこともその証左だろう。しかしながら、翁長氏が県民の間で強い輝きを放つ存在となったのは、意外と最近のことだ。

きっかけは、201210月に実施された、普天間飛行場へのMV-22オスプレイの配備だった。那覇市長だった翁長氏は民主党政権を批判し、県民の先頭に立って、開発段階で事故が多発したオスプレイの配備撤回を訴えた。自民党・安倍晋三政権が復活してまもない20131月には、翁長氏は生粋の自民党政治家であるにもかかわらず、沖縄県の41市町村長(翁長氏含む)、41市町村議会議長、超党派の県議ら約140人を集めて上京、日比谷公園から銀座までオスプレイ配備撤回のデモ行進を行った。こうして翁長氏は、「生活の闘い」をする政治家として衆目に周知されていく。

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