翁長雄志はいかにして「オール沖縄」知事となったか

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保守政治家一家のサラブレッド

 

翁長氏は1950年、保守政治家一家に生まれた。名門の那覇高校を卒業すると、米軍占領下の沖縄を離れて東京の法政大学法学部に「国費留学」した。日本本土に行くのにパスポートが必要だった時代である。地元ではサラブレットだった翁長氏だが、東京では下宿先を探しても「琉球人お断り」でなかなか見つからないなど、差別を経験することになった。

翁長氏が法政大学に入ったとき、同大学の夜間部で学んでいたのが、後に第二次安倍政権の官房長官として翁長知事と対立する菅義偉氏だ。菅氏は、高校卒業後に秋田県から集団就職で上京し、働きながら法政大学に通っていた。地元に帰れば前途洋々の翁長氏と、貧しい境遇の中、己頼みで将来を切り開こうとする菅氏の学生生活は、対照的なものだったろう。

翁長氏が那覇市議をへて沖縄県議となった1992年には、革新派の大田昌秀氏が知事で、自民党は県議会では野党だった。その上、1993年には非自民連立内閣が成立した影響で、沖縄でも自民党離党者が相次いだ。自民党は1994年に自社さ連立政権で与党に返り咲き、1996年には橋本龍太郎政権の発足で権力の座を奪還する。自民逆境の時代を耐えた翁長氏が県連幹事長となったのも、同じ頃である。

 

大田県政の天敵

 

1995年の少女暴行事件、大田知事の軍用地代理署名拒否をきっかけとしたSACO発足を契機に、橋本政権は大田知事との信頼関係構築に努めた。そのため、政府と沖縄県のパイプ役を務めたのは、自民党沖縄県連ではなく、県庁職員で労働組合の幹部を歴任してきた吉元政矩副知事だった。翁長氏からすれば面白くなかっただろう。

翁長氏は、大田県政の実務を一手に取り仕切る吉元副知事の追い落としを図った。1997年の副知事再任の否決に動いたのだ。普天間飛行場の嘉手納統合案に前向きな吉元副知事を評価する橋本政権は、吉元氏再任否決を止めようとする。だが自民党は、本議会決議の際に退出した。議会与党の共産党が、SACOで決まった那覇軍港の県内移設を吉元氏が認めたとして再任を否決した。

吉元氏なき大田県政では、読谷村長として米軍基地の整理縮小をなしとげた山内徳信が出納長として知事を補佐した。その影響で1998年に入ると、吉元氏の現実路線から、普天間飛行場の県外移設を求める革新路線へと方針が転換される。翁長氏は県議会で、大田知事の「変節」を厳しく追及した。

翁長氏は、199811月の知事選で三期目を目指して出馬した大田知事の対抗馬に、沖縄経済界の重鎮である稲嶺恵一氏を擁立した。19987月に首相に就任した小渕恵一氏は、稲嶺氏の父親で自民党参議院議員だった一郎氏と若い頃から親しく、その息子の恵一氏とも以前から個人的な親交があった。また小渕内閣の官房長官となった野中広務氏は、翁長氏が最も尊敬する政治家の一人だった。

翁長氏は、小渕氏と野中氏の日本政府なら、交渉が可能だと信じたのだろう。彼は防衛庁の守屋武昌氏を説得した上で、稲嶺氏の公約に、普天間の県内移設の条件として代替施設の15年使用期限と軍民共用を盛り込ませた。他方、大田県政の失策で沖縄が不況に陥ったという「県政不況」批判を展開し、若者などの浮動票を取り込んだ。当時、アジア通貨危機のあおりを日本も受けており、沖縄経済にも影を落としていたのだ。翁長氏はさらに、小渕政権の自自公連立の成立よりも早く、公明党に共闘を持ちかけて実現させる。

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