日米地位協定はなぜ改定されないのか

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地位協定の運用改善

そもそも地位協定の締結からおよそ60年の歴史を振り返ってみて、同協定の改定要求が日本国内で最も高まったのは、冷戦終結後の1995年である。同年9月に沖縄で「少女暴行事件」が発生したのをきっかけとして、沖縄県や野党勢力からだけでなく、政権与党からも協定見直しの声が強く上がったのである。しかし、村山政権下で外務大臣の地位にあった河野洋平は、「ほぼ孤立無援」の状況のなか、地位協定の改定ではなく運用改善というかたちで対応することになる。

河野の回想によれば、駐日アメリカ大使のモンデールは「地位協定の改定問題を持ち出したら何年も交渉にかかるし、それでも実現できるかどうかわからない、それより地位協定の運用の改善という形にしたほうがいいのではないか」という意見であり、河野自身も「当面の対応としてはそれは一理あることではないか」と考えたという(河野洋平『日本外交への直言』145頁)。

日米地位協定は米軍の日本駐留に関する様々な米側特権を記したものであり、米側がこれを維持しようとするのは、ある意味当然のことである。よって協定の改定交渉に入った場合、モンデールの言うように、交渉が難航するのは必至であり、場合によっては決裂という事態になることも、十分に想像できるものであった。したがって、「当面の対応」として運用改善で対処したことは、日米当局者の立場からすれば、確かに「一理ある」対応であったといえるのかもしれない。

いずれにしても、日米間で検討を開始してからおよそ1ヶ月後の10月下旬には、地位協定第17条に関する運用改善策が発表されるのであった。すなわち、米兵の起こした犯罪が「殺人又は強姦という凶悪な犯罪」であった場合、起訴前の日本側への引き渡しに米側が「好意的な配慮を払う」、ということが合意されたのである。

この日米合意に取り組んだ外務省の折田正樹北米局長は、筆者とのインタビューで、「通常だと半年はかかった」と振り返ったうえで、それが僅か1ヶ月余りで合意に至った背景には、「アメリカにもそれだけ危機感があった」ということを挙げている(筆者による折田氏へのインタビュー)。

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