“突出”する日本の「有事」論
さらに着目すべきは、実は米国において戦略上の大きな転換が画されようとしていることである。そもそも米国は昨年の中半からウクライナへの兵器の供与、軍事援助を本格化させ、NATOを主導して「ウクライナはNATOに加盟していないが、NATOはウクライナに入っている」とも言われたように戦争への準備体制を整えてきた。この意味において、米国は戦争勃発の“一役”を担った訳である。しかし一度戦争が始まると、エネルギー問題であれ穀物問題であれ、米国企業の利害を越えて、国際的な未曾有の危機状況が生み出されることになった。加えて、弾薬やミサイルなどの膨大な軍需品をウクライナに供与することによって「自国の戦闘能力」を損なう恐れさえ生じてきたのである。
こうした危機的な情勢展開をうけて米国では、安易に戦争にのめり込むことへの警戒感が高まってきた。かくして台湾問題についても、表向きの強硬論とは別に、中国との間で“軟着陸”をはかる動きが歩みを始めた。従って、そもそも日本の中国への「敵基地攻撃」も容認しないであろう。しかしながら他方で、日米安保の枠組において最も御しやすい日本に対しては、ひたすら危機を煽り日米合同の大規模な軍事演習を繰り返し、その上で何よりも高額な兵器の購入を求め続けるのである。以上のように見てくるならば、事実上日本だけが“突出”して「台湾有事」論を煽りたてている、という構図が鮮明に浮かび上がってくる。
もちろん情勢は流動的であって、台湾が独立に動く場合に、習近平が「速戦即決」「一挙制圧」「占領統治」というシナリオを描いているのではないか、といった観測も示されている。なぜなら、戦争を始めるのは容易であっても終結させるのは至難という“教訓”をウクライナ戦争から引き出したからである。仮に戦争が泥沼状態に陥れば習体制は崩壊の危機に瀕すると見通しているのであろう。とはいえ、そもそも習近平がいつ戦争を決断するか、さらにはバイデンや米国側が中国との戦争に踏み出すか、あるいは米中間で何らかの“妥協”が見いだされるか、いずれも不確実そのものであり、おそらく当事者でさえ分かっていないであろう。
「戦争回避コアリション」
こうした不確実で不安定な情勢のなかで、唯一確実で明確なことがある。それは、ASEANを始め周辺諸国が打ち出しているところの、「米中対決、米中戦争に巻き込まれたくない」という絶対的な立ち位置である。例えばシンガポールのシェンロン首相は、「いかに戦争は馬鹿げたことか」「始めることは簡単としても結末は悲劇的である」と指摘し、あくまで戦争を回避すべきと訴える。(『日経新聞』2022年5月26日)こうしたASEAN諸国の動向は、国際的にも「新たな非同盟主義」の潮流として位置づけることができよう。バイデン政権は民主主義対専制主義という価値観対立を前面に掲げているが、欧米諸国によるかつての植民地支配や侵略戦争、さらには米国自体が国内で価値観の分断に直面していることを踏まえるならばおよそ説得力をもたず、インドやトルコも含め新興諸国の間で「全方位的な外交」という流れが形成されているのである。
さらに、改めて考えてみれば、仮に日本が中国に「敵基地攻撃」をかけ戦争となった場合、南西諸島の145万人を越える住民ばかりではなく、中国進出の1万2千社の企業、12万人の在留邦人、2万人の台湾在留邦人の運命はどうなるのであろうか。この現状を踏まえるならば、とり得る選択肢は戦争回避以外にあり得ない。
そうであれば日本は、ASEANや周辺諸国との間で「戦争回避コアリション」とも言うべき提携関係を構築し、米中両国に戦争の回避を強く働きかけるべきである。仮に日本が正面から「戦争回避」を求める方針を打ち出すならば、東アジアに新たな秩序を生み出す契機として大きな反響を呼び起こすことは間違いない。日本自身が煽りたて、あるいは米国によって煽りたてられて「不要なケンカ」にはまり込むという馬鹿げた事態に国家と国民を直面させないためには、戦争回避の方針を選択する以外の道はないはずである。
とはいえ、「美國主導下」にある日本政府がこうした方向に動くのは現実的には期待できないであろう。とすれば、戦場の危機に直面する沖縄が内外に戦争回避を訴えるとともに、東アジアの中軸に位置する地方自治体として、何よりも信頼醸成にむけた「独自外交」に踏み出すべきであろう。その契機として重要な足がかりになるのがSDGs(持続可能な開発目標)である。